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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集巻第一 春秋 百二十首(百十七と百十八)
年ごとになきてもなにぞ呼子鳥 呼ぶにとまれる花ならなくに
(百十七)
(年毎に、鳴いてまでも何をぞ、よぶこ鳥、呼べば散り止まる花ではないのに……疾し毎に、泣いてまでも、何を呼ぶ子とり、喚びとめれば、散らないお花ではないことよ)。
言の戯れと言の心
「とし…年…疾し…早過ぎ」「なき…鳴き…無き…泣き」「呼子鳥…鳥の名…名は戯れる、子を呼ぶとり、おとこを呼ぶ女、子を且つ乞う女」「よぶ…呼ぶ…喚ぶ…よび寄せる」「子…子供…君子…この君…おとこ」「鳥…女」「花…木の花…男花…おとこ花」「とまる…留まる…止まる…踏みとどまる」「ならなくに…ではないことよ…ではないのに」。
呼ぶ子鳥は、子を呼ぶ女、おとこを呼ぶ女などということは、古今伝授の秘伝となって埋もれた。鳥の言の心が女などとは、近代人には受け入れ難いので、呼子鳥は何鳥かを探し求めることになるが、不明のままうち過ぎて久しい。探求の方向を間違えているのである。
龍田川もみぢみだれて流るめり わたらば錦中やたえなむ
(百十八)
(龍田川、黄葉紅葉、乱れて流れるようね、渡れば、錦織、中ほどできっと絶えるでしょう……絶ったかは、飽き色の端、みだれて流れるように思える、わたれば、錦木、なかばや、いや最後まで、耐えてほしい)。
「たつたかは…龍田川…川の名、名は戯れる、立つ多川、多つ田かは、絶ったかは」「田…女…多」「川…女…かは…疑問を表す」「もみぢ…黄葉紅葉…飽き色」「みだれて…乱れて…身垂れて」「わたる…渡る…女の許へゆく」「めり…見える…思える」「にしき…錦…錦織…綺麗な織物…錦木…男木」「なか…中…なかば…仲」「たえなむ…きっと絶えるだろう…耐えてほしい…踏み止まってほしい」「たえ…絶え…耐え」「なむ…確実な推量を表す…相手に希望する意を表す」。
歌の清げな姿は、散る花のはやしに鳴く呼子鳥の風情と、色とりどりのもみじ葉流れる龍田川の景色。
和歌は唯それだけではない。心におかしきところは、おとこの、はかないさがを嘆く女の色情。
藤原俊成のいうように、歌言葉は浮言綺語の戯れに似ているけれども、そこに歌の深い趣旨も顕れる。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。