帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第三 秋 (百十五)(百十六)

2015-03-25 00:16:29 | 古典

        


 

                     帯とけの拾遺抄


 

藤原公任『新撰髄脳』の「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って和歌を紐解いている。

近世以来の和歌の解釈は、紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、独自の解釈方法を構築した。歌を字義通りに聞き、言の戯れは、序詞、掛詞、縁語などと名付けて、和歌はそのような修辞で巧みに表現されてあるという。字義通り聞くと意味の通じない序詞などを歌の調べとしての意義があるなどという。このような解き方が定着すれば、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解するしかない。これは本末転倒である。逆さまにして、近世以来の学問的解釈方法を棄ててみたのである。


 

拾遺抄 巻第三 秋 四十九首


      屏風に八月十五夜にいけ有るいへにてあそびたるかた有る所に    源順

百十五 水のおもにてる月なみをかぞふれば こよひぞ秋のも中なりける

屏風に八月十五夜に池の有る家にて遊宴している絵の有る所に   (源順・清原元輔らと共に後撰和歌集撰者)

(水面に照る月齢を数えれば、今宵ぞ、秋の真ん中であったなあ……をみなの面に・表れる、照るつき人壮子の波動の数をかぞえれば、小好いぞ、飽きの真っ盛りだなあ)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「水…言の心は女…をみな」「てる月…照る月光…てり輝くつき人をとこ…火照る君」「月…月人壮子…男…突き…尽き…おとこ」「なみ…次…令…齢…波…波動…汝身」「かぞふ…数える…勘定する…勘案する」「こよひ…今宵…八月十五夜…小好い」「秋…季節の秋…飽き…飽き満ち足り」「も中…最中…真っただ中…真っ盛り」「なりける…であるなあ…であったのだなあ」

 

歌の清げな姿は、細波の水面に映る満月。

 心におかしきところは、をみなの表情に反映するおし照る月人壮士のありさま。

 

 

延喜御時に八月十五夜後涼殿のはざまにて蔵人所の男ども月の宴し侍りける  藤原経臣

百十六 ここにだに光さやけきあきの月 雲の上こそ思ひやらるれ

延喜御時に八月十五夜、後涼殿と蔵人所町屋の狭い間にて、蔵人所の男どもが月見の宴をした  (藤原経臣・蔵人・後に肥前守になったという)

(ここでさえ、光清らかに澄んでいる秋の月、雲の上では、どれ程だろうと・想像される……男どもだけの・ここだからこそ、光清らかに澄んでいる、常には盛る・飽きのつき人おとこ、煩悩湧き立つ上の、上こそ思い晴らせる)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「ここ…蔵人ども…六位の男達…蔵人所の町屋と後涼殿(更衣・女御の居所)との狭間」「だに…でさえ…だけは」「光…月光…男の輝き」「さやけき…清らかな…澄んだ」「あきの月…秋の月…飽きのつき人壮子…盛りのおとこ」「月…上の歌と同じ」「雲の上…殿上人(五位以上の選ばれた人)…天上…煩悩の上」「雲…空の雲…心に煩わしくも湧きたつもの…煩悩」「上…天上…女の尊称…ひとの上」「思ひやらるれ…想像される…心配される…思いを晴らせる」

 

歌の清げな姿は、地上の月光に比べて天上の月光の清らかさの想像。

 心におかしきところは、色欲湧き立つ月人壮士、八雲たちわたる上の、その上での心遣り。


 

これらの歌や撰者の公任とは、全く同じ文脈にある清少納言枕草子(第二章)に、「月」の羅列で成る文がある。

比は、正月、三月、四月、五月、七八九月、十一二月。すべて折りにつけつつひととせながらおかし。

前半は、一年を十二分した名称の羅列であるとすると、意味不明で、「全て季節・時節の折々に伴って、一年中、情趣がある」と読んで、前半は捨て置くか、「序詞」とでもするしかないだろう。

戯れも含め「月」の意味することを全て心得たとき、清げな姿に包んだ「心におかしきところ」のある文章であるらしいとわかる。前半の、まな(漢字)を女の言葉(歌の言葉)に変換して読んでみる。

 (ころ合いは、睦ましいつき、や好い、浮つき、さつき、なな、やあ、ここのつき・長つき、十、あと一、二つき。すべて、折り逝きつつも、女と背の君の心柄、おかしい)。


 紫式部の「清少納言枕草子」批判をヒントに紐解いた。「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人、さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども、よく見れば、いとたへぬことおほかり」(清少納言こそ、してやったり顔で、お上手な人・ひどい人。あれほど賢こぶって、枕草子に・漢字を書き散らして居らっしゃる程度も、よく見れば、とても耐えられないことが多くあります)」と、紫式部日記にある。さすがに的確な批評であるとわかる。枕草子にはこの類のことが多くあるらしい。

 

 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。


帯とけの拾遺抄 巻第三 秋 (百十三)(百十四)

2015-03-24 00:11:50 | 古典

        


 

                     帯とけの拾遺抄


 

藤原公任『新撰髄脳』の「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って和歌を紐解いている。

近世以来の和歌の解釈は、紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、独自の解釈方法を構築した。歌を字義通りに聞き、言の戯れは、序詞、掛詞、縁語などと名付けて、和歌はそのような修辞で巧みに表現されてあるという。字義通り聞くと意味の通じない序詞などを歌の調べとしての意義があるなどという。このような解き方が定着すれば、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解するしかない。これは本末転倒である。逆さまにして、近世以来の学問的解釈方法を棄ててみたのである。


 

拾遺抄 巻第三 秋 四十九首

 

少将に侍りける時こまむかへにまかりて            左衛門督高遠

百十三 あふさかのせきのいはかどふみならし  山立ちいづるきりはらのこま

少将であった時に駒迎えの役目で出かけて          (左衛門督高遠・大弐高遠・公任の従兄弟)

(逢坂の関の岩角踏みならし、山を出で立つ、桐原産の駒……合う山坂の、難関の岩門、ふ身馴らし、山ば絶ち出る、限り腹のこま)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「あふさか…逢坂…所の名…名は戯れる。合う山坂、和合の山路」「せき…関…関所…難関…関門…石」「石・門…言の心は女」「いはかど…岩門…石門…盤石なおんな」「ふみならし…踏み均し…踏み鳴らし…婦身鳴らし…ふみ泣かし」「ふみ…踏み…実践…婦身」「山…山ば…合う坂の頂上」「立ちいづる…たち出る」「たち…接頭語…立ち…立ったまま…絶ち…断ち」「きりはら…桐原…地名…名は戯れる。限腹、限度の腹のうち、限界のきた腹に付いた物、限界のきたおとこ」

 

歌の清げな姿は、逢坂の関での駒迎え風景。

 心におかしきところ、合う坂の山ばの難関門をのり越えて山を出る限度ぎりぎりのこま。

 

 

延喜御時月令の御屏風にこまむかへのかた有る所に        貫之

百十四 あふさかのせきのし水に影見えて いまやひくらむもち月のこま

延喜御時に月次の御屏風に駒迎えの画の有る所に         紀貫之

(逢坂の関の清水に影見えて、今まさに、牽きつれてくるのだろう、望月産の駒……合う坂山ばの関門の、清きをみなに陰り見えて、今、退くのだろうか、満月の・つき人おとこ)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「あふさかのせき…上の歌と同じ」「し水…清水…綺麗な湧水…清いをみな」「水…言の心は女」「影…映像…陰…陰り」「ひく…牽く…引き連れて来る…退く…ひきさがる」「もち月…望月…産地の名…満月…充実したままのつき人をとこ」「こま…駒…こ間…股間…おとこ」

 

歌の清げな姿は、八月の屏風絵の情景。

 心におかしきところは、望めども、ありえない情況が、男心をくすぐるところ。


 和合の山ばのをみなに陰りがみられるまであいつとめて、望月のまま退くのは、おとこの理想だろう。現実には、そのさがにより、無理なこと。

 

月が男であること、まして、おとこであるという文脈には今の人々はいないが、古代中古を通じて月は壮士・壮子・男・おとこであった事は、その気になって万葉集の巻第十の秋の歌などを読めば誰でも心得られる。

 

秋風の清き夕べに天の河 舟こぎ渡る月人壮子

夕星もかよふ天道いつまでか 仰ぎて待たむ月人壮

もみぢする時に成るらし月の人 かつらの枝の色つく見れば

秋の夜の月かも君は雲隠れ しばしく見ねばここだ恋しき

 

これらの歌は、一義に聞く清げな姿からも、月は男以外の何者でもないことがわかる。さらに、突きひとおとこ、尽きひとおとこ、つきの夫根などとも聞き、他の歌言葉も浮言綺語の如く戯れているとする文脈に飛び込み、「秋…飽き」「天…あま…女」「見…覯…まぐあい」などと聞こえれば、公任のいう「心におかしきところ」が顕れる。


 近代から現代の文脈では、月に男性のイメージなど全く無く、別の印象さえ持ってしまったようである。その俎上に乗せて、これらの歌を料理しては、永遠に歌のおかしさは味わえないだろう。

 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。


帯とけの拾遺抄 巻第三 秋 (百十一)(百十二)

2015-03-23 00:08:23 | 古典

       

 

                   帯とけの拾遺抄


 

藤原公任の『新撰髄脳』の「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って和歌を紐解いている。

近世以来の和歌の解釈は、紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、独自の解釈方法を構築した。歌を字義通りに聞き、言の戯れは、序詞、掛詞、縁語などと名付けて、和歌はそのような修辞で巧みに表現されてあるという。字義通り聞くと意味の通じない序詞などを歌の調べとしての意義があるなどという。このような解き方が定着すれば、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解するしかない。これは本末転倒である。逆さまにして、近世以来の学問的解釈方法を棄ててみたのである。


 

拾遺抄 巻第三 秋 四十九首

 

家の前栽にすずむしをはなち侍りて                 伊勢

百十一 いづこにも草のまくらをすずむしの ここをたびとはおもはざらなん

わが家の前栽にすず虫を放って                   伊勢

(どこにでも草の枕を・どうぞ、すず虫が、此処を旅宿とは思はないで欲しいの……いづ子でも、草のまくらを・どうぞ、勧む其の此処を、たびたびだなと思わないで欲しいの)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「いづこ…何処…射づ子…出づ子…果てたおとこ」「こ…子…おとこ」「草のまくら…草枕…粗末な枕…仮寝の妻」「まく…巻く…からみつく…めとる」「ら…状態・情態を表す」「を…対象を示す…詠嘆を表す」「すずむし…鈴虫…秋に鳴く虫…鳴く虫の言の心は女…飽きが来るとなく女」「すすむ…進む…進呈する…勧む…勧誘する」「し…其…それ」「の…が…主語を示す…所属・所有を表す」「たび…旅…度…度数…度々」「ざらなん…ないで欲しい」「ざら…ず…打消しを表す」

 

歌の清げな姿は、我が家の前栽を鈴虫の終の棲家にすすめる風流。

 心におかしきところは、それのここを艶っぽく勧めるところ。


 妖艶ともいえる心におかしきところだろう。

 

 

屏風に                              貫之

百十二 秋くればはたおるむしの有るなへに からにしきにも見ゆるのべかな

      人の家の屏風に                         (紀貫之・古今集編纂より三十数年後に詠んだ屏風歌という)

(秋来れば、機織る虫が居るのに伴って、唐錦にも見える野辺だなあ……飽き繰れば、はた折るむしめが在るのに応じて、色気たっぷりに見える、のべだなあ)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「秋…飽き…飽き満ちたところ」「はたおるむし…きりぎりすのことという…機織りめ…鳴く虫の言の心は女…はた又折る女…繰り返す女」「有る…居る…在る…健在である」「なへに…とともに…ともなって…応じて」「唐錦…色彩豊かな織物…秋の草花の紅葉・黄葉するさま…色気たっぷりなさま」「見ゆる…見えている…見ている」「見…覯…媾…まぐあい」「のべ…野辺…山ばではないところ…延べ…延長」「かな…感動・感嘆を表す」

 

歌の清げな姿は、屏風絵に相応しい秋の情景。

 心におかしきところは、めくるめくばかりに、くりひろげられる色ごとの飽き満ち足りたさま。

 

貫之は、土佐の国より帰京後に公にした「新撰和歌集」の序で、優れた歌のことを「花実相兼」「玄又玄」[絶艶之草]などという。優れた歌は、花も実もあり、奥深い上にさらに又奥深いところに、絶妙の艶があるということだろう。それを実感できるように歌を紐解いている。

 

 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。


帯とけの拾遺抄 巻第三 秋 (百九)(百十)

2015-03-21 00:11:18 | 古典

        


 

                     帯とけの拾遺抄


 

藤原公任の『新撰髄脳』の「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って和歌を紐解いている。


 近世以来の和歌の解釈は、紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、独自の解釈方法を構築した。歌を字義通りに聞き、言の戯れは、序詞、掛詞、縁語などと名付けて、和歌はそのような修辞で巧みに表現されてあるという。字義通り聞くと意味の通じない序詞などを歌の調べとしての意義があるなどという。このような解き方が定着すれば、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解するしかない。これは本末転倒である。逆さまにして、近世以来の学問的解釈方法を棄ててみたのである。

 

 

拾遺抄 巻第三 秋 四十九首

 

題不知                          読人不知

百九 こてふにもにたるものかな花すすき 恋しき人に見すべかりけり

     題しらず                        (よみ人しらず・女の歌として聞く)

(来いと言うのに、似ていることよ、花すすき、恋しい人に見せればよかったなあ……子というのにも似ている物よ、花咲いた薄情なおはな、恋しい人に見せるべきだった)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「こ…来…来い…子…男子…おとこ」「にたるもの…人に似ているもの…ものに似ている物」「かな…感動の意を表す…感嘆の意を表す」「花すすき…白い花咲いた尾花…花咲き手まねきする形になった薄…しな垂れるお端…草ながらすす木と戯れるか、言の心は男」「花…はな…端…身の端」「見す…見せる…(招いていることを)知らす…(おのれの姿を)見せしめる」「けり…気付き・詠嘆の意を表す」

 

歌の清げな姿は、花薄の様子が面白いので恋人に見せようと思う女心。

心におかしきところは、飽き果てて去った恋人に薄のありさま見せてやればよかったと思う女の心。

 

「拾遺抄」と全く同じ文脈にある清少納言の枕草子(草の花は)に、「すすき」について、次のような事が記されてある。

 草花の名などのおかしさについて述べたあと、「これにすすきをいれぬ、いみじうあやしと人いうめり(草花に、薄を、入れた・入れない、はなはだしく奇妙だと人は言うでしょう)。

秋の野のおしなべたるおかしさはすすきこそあれ。穂さきの蘇枋にいとこきが、朝露にぬれてうちなびきたるは、さばかりの物やある。秋のはてぞいと見所なき。

(秋の野の一様のおかしさはすすきである。穂先が蘇枋色でとっても濃いのが、朝露に濡れて、靡いているのは、これほどの物が他にあるか。秋の果ては全く見所がない……飽きの山ばのないところの、おし並べたおかしさは、薄情なおはなである。お先の赤むらさきの濃いのが、浅つゆに濡れて、靡いているのは、これほどのおかしな物は他にあるか。飽きの果ては全く見どころがない)。

風になびきてかひろぎたてる。ひとにいみじうにたれ。

(秋風に靡いて、揺れて立っている。人に、ひどく似ている……飽風に靡いて、ゆらゆらかろうじて立っている。ひと・非門・おとこ、にひどく似ている)。

 

 
   
亭子院のおまへに前栽うゑさせたまひてこれよめとおほせごとありければ 伊勢

百十 うゑたてて君がしめゆふはななれば 玉とみえてや露もおくらむ
    
亭子院におかれては前栽植えさせられて、此れ詠めと仰せごとがあったので 伊勢

(植え立てて、君の標結う花なので、宝玉と見えて露もおりるでしょうか……うえ立てて、君がしめいう花なれば、白玉に見えてや、つゆもおりるでしょう)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「うゑたて…植えつける…種まく…埋め込む」「たて…語意を強める接尾語…立て」「しめゆふ…標綱などを結ぶ…占有を示す標を付ける…締め結ぶ」「はな…花…端…身の端…草花の言の心は女」「なれば…であれば…成れば」「玉…宝玉…真珠…白玉」「や…疑問詞…感嘆詞」「露も…露でさえ…白つゆさえ」「おくらむ…降りるでしょう…贈るでしょう…送るでしょう」

 

歌の清げな姿は、君の前栽には真珠に見える露が降りるでしょう。

 心におかしきところ、君の占める女なれば宝玉と見えるつゆ贈られるでしょう。

 

伊勢は亭子の帝に寵愛された人。歌の「心におかしきところ」に伊勢の女の魅力が(普通の言葉では言い難い女の情感が)満ちている。

今の人々は、清げな歌の姿を見てそれがこの歌の全てと思っているようだ。どうして、和歌はそのような一義で、うすぺらいものにされてしまったのだろう。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。


帯とけの拾遺抄 巻第三 秋 (百七)(百八)

2015-03-20 00:16:07 | 古典

        


 

                     帯とけの拾遺抄


 

藤原公任の『新撰髄脳』の「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って和歌を紐解いている。


 近世以来の和歌の解釈は、紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、独自の解釈方法を構築した。歌を字義通りに聞き、言の戯れは、序詞、掛詞、縁語などと名付けて、和歌はそのような修辞で巧みに表現されてあるという。字義通り聞くと意味の通じない序詞などを歌の調べとしての意義があるなどという。このような解き方が定着すれば、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解するしかない。これは本末転倒である。逆さまにして、近世以来の学問的解釈方法を棄ててみたのである。


 公任の歌論で『拾遺抄』の最後の一首まで紐解けるだろうか。和歌の解釈では、近世以来の学問的解釈方法に代わってより有用である証しにしたい。


 

拾遺抄 巻第三 秋 四十九首

 

さが野に前栽ほりにまかりて                   藤原長能

百七 ひぐらしに見れどもあかずをみなへし のべにやこよひ旅ねしなまし

嵯峨野に前栽の草木掘りに出かけて               (藤原長能・道綱の母の弟)

(一日中、見て居ても飽きない女郎花、野辺でか、今宵、旅寝してしまいそうだ……一日中みていても、飽きない若いをみなへし、延ばすか、こよい、度々寝てしまうだろう)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「ひぐらし…日暮らし…一日中」「見れども…見ていても…眺めていても…合っても」「見…覯…媾…まぐあい」「あかず…飽かず…満ち足りることが無い」「をみなへし…女郎花…草花の名…をみな圧し…若い女おしつけ」「のべ…野辺…延べ…延長」「や…疑いの意を表す…感嘆・詠嘆の意を表す」「こよひ…今宵…こ好い」「たびね…旅寝…度寝…二度三度重ねて寝る」「なまし…してしまうだろうに…してしまうかもしれない」

 

歌の清げな姿は、嵯峨野の女郎花の美しさに魅せられたさま。

心におかしきところは、をみなへし見れども飽かぬさま。

 

 

八月ばかりにかりの声を待つ心の歌よみ侍りけるに         恵京法師

百八 をぎの葉もややうちそよぐほどなるを などかりがねのおとなかるらむ

八月ごろに、雁の声を待つ心の歌を詠んだときに          恵慶法師

(荻の葉も、やゝそよぐ程となるのに、どうして雁の声の噂もないのだろうか……お木の端も、すこし揺らめくころなのに、どうして、かりの泣き声が無いのだろうか)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「をぎ…荻…すすきに似ている草の名…お木と戯れてか言の心は男…すすきも、薄・薄情と戯れるのか、すす木と戯れるのか言の心は男。これらは理屈抜きで、戯れなので、そのように心得るしかない」「葉…端…男の身の端…おとこ」「うちそよぐ…そよそよと音を立てる…秋風が吹く…飽き風が吹く」「うち…接頭語」「ほどなる…程である…ほと成る…男女成る」「かりがね…雁が音…雁の鳴き声…かりの女の声」「かり…雁…秋に渡ってくる水鳥…鳥の言の心は女…狩り…猟…あさり・めとり…まぐあい」「おと…訪れ…音…うわさ」「らむ…(どうして)なのだろう…原因理由を疑問をもって推量する意を表す」

 

歌の清げな姿は、渡り鳥の無事の飛来を待つ心。

心におかしきところは、世の人の和合を心配するところ。


 

両歌とも、心におかしきところは、俊成のいう浮言綺語にも似た歌言葉の戯れに顕れる、煩悩である。優れた歌は「艶にもあはれにも聞こえることのあるべし」という俊成の歌論にも適っているようである。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。