■■■■■
帯とけの拾遺抄
平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読んでいる。
公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という、優れた歌の定義に表れている。勅撰集に採られるような歌には、必ずこの三つの意味が有る。
今の国文学の和歌解釈方法は棚上げしておくが、やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な解釈とその方法であることに気付くだろう。
拾遺抄 巻第九 雑上 百二首
はらへしに、あき、からさきにまかりてふねのまかりけるを見侍りて
恵京法し
四百十三 おく山にたてらましかばなぎさこぐ ふなきもいまはもみぢしなまし
祓えしに、秋、唐崎に行って、舟が来たのを見て (恵慶法師・国分寺講師という・元輔や宣能らと交流のあった人)
(奥山に立っていたならば、渚漕ぐ舟を造る木も、今は紅葉しているだろうに……妻の山ばに立っていれば、なぎさこぐ夫根の気も、今は、飽き色しているだろうになあ)
言の戯れと言の心
「おく…奥…奥方…言の心は女」「山…山ば…感情などの山ば」「まし…仮に想像する意を表す」「なぎさ…渚…汀・浜などと共に言の心は女」「こぐ…水をおし分けすすむ…こく…放つ」「ふなき…舟木…舟を造る木材…夫な気…夫根の気」「舟・木…言の心は男」「もみぢ…紅葉・黄葉…秋の色…飽きの色…厭きの色」「まし…仮に想像する意を表し、後悔や安堵感などの意を含むことが有る」
歌の清げな姿は、秋、唐崎にて、渚を漕ぐ舟を見た感想。
心におかしきところは、己の男性としての思いを、渚漕ぐ舟に寄せて詠んだ。
題不知 躬恒
四百十四 もみぢばのながるるときはたけがはの ふちのみどりも色かはるらむ
題しらず (凡河内躬恒・古今和歌集撰者)
(もみじ葉の流れる時は、竹河の淵の緑も色変わっているだろう・今頃……おとこの・飽き色、流れる時は、常磐の・多気川の、奥深いところの色情も変わるだろう)
言の戯れと言の心
「もみぢば…もみじ葉…紅・黄などの秋の色…飽き色の身の端」「ときは…時は…常磐…常に変わらない」「岩・磐・石の言の心は女」「たけかは…竹河…川の名…名は戯れる。長かは、多気川、多情な女」「川…言の心は女」「ふち…淵…深い所…奥深いところ…川淵は女の奥深いところ」「みどり…緑…常禄」「色…色彩…色情」「らむ…現在の情況を想像する意を表す…推量の形で婉曲に述べる」
歌の清げな姿は、もみじ葉流れる竹河の淵の風情。
心におかしきところは、飽き満ち足りた和合の情態を、願望をまじえて想像した。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。
和歌の表現様式について述べる
紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って、平安時代の和歌の表現様式を考察すると次のように言える。「常に複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸である。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様子なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式である」。