帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (四百二)(四百三)

2015-09-18 02:00:28 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。今の国文学の和歌解釈方法は棚上げしておく。やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な方法であることに気付くだろう。


 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

延喜御時、飛香舎にて藤花の宴ありけるに、人人わかつかまつりけるに

 小野宮大臣

四百二  うすくこくみだれてさけるふぢの花 ひとしき色はあらじとぞおもふ

延喜の御時に飛香舎(藤壺)にて、藤花の宴があったときに、人々、和歌を作ったので、 (小野宮大臣・藤原実頼・公任の祖父)

(薄く濃く、乱れて咲いた藤の花、同じ色は、ないだろうと思う……情薄く情厚く乱れて咲いたおとこ花、同じ色情は、二つとないと思う)

 

言の戯れと言の心

「うすく…(藤の花の色彩)薄く…(おとこ花の色情)薄く」「こく…色彩濃く…色情濃く」「ふぢの花…藤の花…おとこ花…不二の花…二つとない花」「色…色彩…色情」

 

歌の清げな姿は、紫でも濃淡微妙に違う藤の花の色彩。

心におかしきところは、おとこ花の色情は、十人十色。

 

 

郭公をききてよみ侍りける              坂上郎女

四百三  郭公いたくななきそひとりゐて いのねられぬにきけばくるしも

郭公を聞いて詠んだ                (大伴坂上郎女・万葉集の女流歌人の第一人者・家持の義母)

(郭公、甚だしく鳴くな、独り居て、寝るに眠れないので、その声・聞けば苦しいのよ……ほと伽す・且つ乞う、ひどく鳴かないでよ、独り居て、寝るに寝られないのに、そんな声・聞けば胸が苦しいよ)

 

言の戯れと言の心

「郭公…ほととぎす…鳥の言の心は女…名は戯れる。ほと伽す、且つ乞う」「ほ…おとこ」「と…おんな」「こう…恋う…乞う…求める」「いたくななきそ…ひどく鳴くな…痛ましく鳴くな…愛おしそうに鳴くな」「い…寝」「ね…寝」「も…意味を強める…詠嘆を表す」

 

歌の清げな姿は、夏の夜の独り寝、かつこうの声が喧しく眠れない。

心におかしきところは、独り寝の夜に、愛おしそうな声で、且つ乞うなどと鳴くな。

 

「郭公」や「ほととぎす」などに、上のような戯れの意味が有ったか無かったかは、理屈で決まることではない。戯れの意味を心得て居て、その意味で通用していた文脈が有ったか無かったかを知ることである。万葉集から平安時代の郭公の歌すべてを、上の意味で通用していたかどうかで、意味の有無は決まる。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

和歌解釈の変遷について述べる(以下再掲載)


  江戸時代の国学から始まる国文学的な古典和歌解釈は、平安時代の歌論や言語観から遠く離れてしまった。

和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸のようである。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式のようである。万葉集の人麻呂、赤人の歌は、明らかに、この様式で詠まれてある。

歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落していた。これを以て、乞食の旅人は生計の糧としたという。歌は門付け芸と化したのである。歌は「色好みの家に埋もれ木」となったという。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。人麻呂、赤人の歌を希求し、古今集を編纂し、歌を詠んだ。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。

江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。それが、今の世に蔓延ってしまった(高校生の用いる古語辞典などを垣間見れば明らかである)。平安時代の人が聞けば、奇妙な解釈に、笑いだすことだろう。

公任の云う「心におかしきところ」と「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」と俊成の云う事柄と共に、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。


帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (四百)(四百一)

2015-09-17 00:15:38 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。今の国文学の和歌解釈方法は棚上げしておく。やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な方法であることに気付くだろう。

 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

延喜御時にふじつぼにて藤花の宴せさせ給ひけるに殿上のをのこども

わかつかうまつりけるに                蔵人国章

四百  藤のはなみやのうちにはむらさきの くもかとのみぞあやまたれける

延喜の御時(897930)に、藤壺にて藤花の宴を催された時に、殿上の男ども和歌を奉ったので、(蔵人国章・醍醐天皇にお仕えした人・藤原国章の若い頃の歌)

(藤の花、宮の内では、紫の雲かとばかり見間違えることよ……不二のおとこ花、宮こでは、澄んだ色の心雲かとばかり、みまちがえていたなあ・あゝま垂れける)

 

言の戯れと言の心

「藤…夏の木の花(花房は垂れている)…男花…春過ぎて咲くおとこ花…不二…不死」「紫…藤の花の色…澄んだ色…高貴な色…稀な色…邪気のない色」「みやのうち…宮の内…宮中…宮こ…極まったところ…感の極みどころ」「くも…空の雲…風雲…心雲…心に煩わしくも湧き立つもの…いわば煩悩…ご来迎の仏の乗り給うのは紫雲」「あやまたれけれ…過ちをしたことよ…間違えるたことよ…見間違えたことよ…あや、間垂れけり」「あや…感嘆詞…あゝ」「ま…間…股間」「ける…けり…気付き・詠嘆の意を表す」

 

歌の清げな姿は、宮内での宴(うたげ)に初めて列席しての感想だろう。国章、十数歳の時。

心におかしきところは、宮の内で酒のみ歌舞の遊びに酔った男どものありさま。

 

 

百首歌中に                     源重之

四百一 夏にこそさきかかりけれふぢのはな 松にとのみもおもひけるかな

百首詠んだ歌の中に                (源重之・冷泉天皇の皇太子時代に奉った歌)

(夏にこそ、咲き掛かった藤の花、松にとだけ、思ったのだなあ……春の情すぎて・なずむ頃にこそ咲き掛かったことよ、不二のおとこ花、女が・待つのでと、思ったのだなあ)

 

言の戯れと言の心

「夏…春過ぎた…撫づ…なづむ…いきなやむ」「さきかかり…咲き掛かり…花房垂れ掛かり」「ふぢのはな…藤の花…不二のおとこ花」「松…待つ…言の心は女」「かな…感動を表す…詠嘆を表す」

 

歌の清げな姿は、花房長く松に垂れ掛かった藤の花、夏の景色。

心におかしきところは、張る過ぎたおとこ花のなづむありさま。


 

藤原定家の撰んだ「百人一首」の源重之の歌を聞きましょう。

風をいたみ岩うつ波のおのれのみ くだけて物を思ふころかな

(風が痛いほどなので、岩打つ波が、自分で砕け散っている、我も独り・心くだき悩む、この頃だなあ……心に吹く風が苦痛なので、岩の女うつ、我が汝身の、おのれだけ射ち砕けて、物をあわれと思うころだなあ)

「風…海風…心に吹く風」「岩・石…言の心は女」「なみ…波…汝身…我が身…並みの物…我がおとこ」「おのれのみ…独り先だって…連れずに」「くだけて…砕け散って…心くだけて…思い乱れて…身を砕いて…な身果てて」


 この源重之の歌二首に共通しているのは、男の「エロス」を詠んで、艶にもあわれにも聞こえることである。

 

 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

和歌解釈の変遷について述べる(以下再掲載)


 江戸時代の国学から始まる国文学的な古典和歌解釈は、平安時代の歌論や言語観から遠く離れてしまった。

和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸のようである。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式のようである。万葉集の人麻呂、赤人の歌は、明らかに、この様式で詠まれてある。

歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落していた。これを以て、乞食の旅人は生計の糧としたという。歌は門付け芸と化したのである。歌は「色好みの家に埋もれ木」となったという。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。人麻呂、赤人の歌を希求し、古今集を編纂し、歌を詠んだ。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。

江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。それが、今の世に蔓延ってしまった(高校生の用いる古語辞典などを垣間見れば明らかである)。平安時代の人が聞けば、奇妙な解釈に、笑いだすことだろう。

公任の云う「心におかしきところ」と「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」と俊成の云う事柄と共に、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。


帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (三百九十八)(三百九十九)

2015-09-16 00:23:36 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。今の国文学の和歌解釈方法は棚上げしておく。やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な方法であることに気付くだろう。


 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

題不知                       読人不知

三百九十八 いはまをもわけくるたきの水を いかでちりつむ花のせきとどむらん

題しらず               (よみ人しらず・男の歌として聞く)

(岩間をも分けて流れ来る滝の水を、どうして、散り積もる花が堰き止められようか・できない……岩間をも押し分け来る、多気のをみなを、どうして、散り積るおとこ花・如きが、堰き止められようか)

 

言の戯れと言の心

「いはま…岩間…岩・石・間の言の心は女」「わけ…自ら判断して…押し分け…(岩をも)割いて」「たき…滝…激流…多気…多情…激情」「水…言の心は女」「いかで…どうして…疑問を表す…どうして(出来ようか出来ない)…反語を表す」「花…桜の花びら…おとこ花の残骸…男の情念の果て」「らん…(理由・根拠などを)疑問をもつて推量する意を表す」

 

歌の清げな姿は、激流に翻弄され流れ来る桜の花びら、春の滝の景色。

心におかしきところは、女の多気には、散り果てたおとこなど、激流に浮いた花びらに等しい。

 

公の歌集「拾遺集」では、「清げな姿」を前面に押し出すように、「巻第一春」に置かれてある。春の景色の歌としても見事であるが、歌は、ただそれだけでは無いことは、平安時代の大人なら誰でも知っていた。

 

 

三月にうるふ月はべりけるとし、やへ山吹をよみ侍りける

   菅原輔昭

三百九十九 春風はのどけかるべしやへよりも かさねてにほへやまぶきのはな

三月に閏月があった年、八重山吹の花を詠んだ  (菅原輔昭・父は菅原文時・菅三品、曽祖父は菅原道真)

(今年の・春風は長閑だろう、八重よりも重ねて、色艶美しく咲け、山吹の花……春の情の心風は、今年は・長閑だろう、八重よりも多く、重ねて・九重十重と、色艶よろしく咲け、山ばのおとこ花)

 

言の戯れと言の心

「春風…季節の春の風…心に吹く春の風」「のどけかるべし…長閑であるに違いない…長くゆったりとして居て当然である」「やへ…八重…花びらの数…二重でも愛でたいものが八重」「かさねて…重ねて…九重にして」「にほへ…色艶美しく咲け…香しく咲け」「やまふきのはな…山吹の花…春に黄色または白い花が咲く…落葉低木…男花…山ばで咲くおとこ花」

 

歌の清げな姿は、今年は春三月が長い、色美しく九重に咲け、山吹の花。

心におかしきところは、重ねて色気たっぷりに咲け、山ばのおとこ花。

 

古今集の山吹の歌を聞きましょう。巻第二春歌下、貫之

吉野河岸の山吹ふく風に そこの影さへうつろひにけり

(吉野川、岸の山吹、吹く風に、底の影さえ揺れ移ろうたことよ……好しのかは、来しの山吹、心に・吹く風に、底にある陰さえ色衰えたことよ)


   「吉野…良しの…好しの」「かは…川…言の心は女…かは…疑問を表す」「山吹…山ばで咲くおとこ花」「影…陰…陰の部…陰り」。


 歌の清げな姿は、吉野川の辺に山吹の咲いた風景。

心におかしきところは、身好しの女の山ばに吹く心風に、底に沈むおとこの陰の色衰えるさま。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

和歌解釈の変遷について述べる(以下再掲載)

 

江戸時代の国学から始まる国文学的な古典和歌解釈は、平安時代の歌論や言語観から遠く離れてしまった。

和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸のようである。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式のようである。万葉集の人麻呂、赤人の歌は、明らかに、この様式で詠まれてある。

歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落していた。これを以て、乞食の旅人は生計の糧としたという。歌は門付け芸と化したのである。歌は「色好みの家に埋もれ木」となったという。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。人麻呂、赤人の歌を希求し、古今集を編纂し、歌を詠んだ。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。

江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。それが、今の世に蔓延ってしまった(高校生の用いる古語辞典などを垣間見れば明らかである)。平安時代の人が聞けば、奇妙な解釈に、笑いだすことだろう。

公任の云う「心におかしきところ」と「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」と俊成の云う事柄と共に、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。


帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (三百九十六)(三百九十七)

2015-09-15 00:03:25 | 古典

         


 

                        帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。今の国文学的な和歌解釈の方法は棚上げしておく。やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な方法であることに気付くだろう。


 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

ある人のもとにつかはしける         御導師浄蔵

三百九十六 霞たつやまのあなたのさくら花 おもひやりてや春をくらさむ

或る女人の許に遣わした (御導師浄蔵・延喜御時の法師・七歳の時に自ら出家を求めたという)

(霞たつ山の彼方の桜花、思いを晴らしてや・咲き散らしてや、春の季節を暮らすのだろう……彼澄み断つ・彼す見立つ、山ばの貴女のおとこ花、思い遣りてや・気を遣ってや、春を・張るお、果てるつもり、如何でしょうか)

 

言の戯れと言の心

「霞…春かすみ…彼澄み…彼す見」「す…おんな」「見…覯…媾」「たつ…たちこめる…断つ…絶つ…立つ…起立する」「やま…山…山ば」「あなた…彼方…離れたところ…貴女」「の…所有、所属を表す」「さくら花…桜花…男花…おとこ花…おとこ端」「おもひやり…思い遣り…気を遣い…想像して…思い晴らし」「や…疑問・感動・詠嘆などを表す」「春…春情…張る」「くらさむ…暮らすのだろう…果てるだろう…果てるつもり」「む…推量を表す…意志を表す…勧誘を表す」

 

歌の清げな姿は、山の彼方の桜花の、咲き散り果てるさま。

心におかしきところは、山ばのあなたのお花、思い遣り深く、はるを果てるでしょう・如何でしょうか。

 

今の文脈での、花の言の心は、木の花も草花も「女」であるらしい。そのような文脈で、和歌の解釈をすれば、根本的に間違えることになるだろう。

 

 

延喜御時に南殿のさくらのちりつもりて侍りけるを見て

  公忠朝臣

三百九十七 とのもりのともの宮つこ心あらば この春ばかり朝きよめすな

延喜の御時に南殿の桜が散りつもっていたのを見て  (公忠朝臣・近江守源公忠、宮仕えのはじめは十四歳にて掃部助・六位蔵人。貫之らのすぐ次の世代の人。歌人として著名)

(殿守の仲間の宮人ども、風流な心・歌心、あるならば、この春だけは、朝の清掃するな……門まもりひとの、もろ共の宮こ、女を思い遣る・心があるならば、この張るばかりは、浅き・お花を、清めするなよ)

 

言の戯れと言の心

「とのもり…殿守…造営・修理・清掃などすち官人…との守るひと…門まもるひと…女」「と…門…おんな」「とも…友…仲間…伴侶…女…共」「宮つこ…宮の奴こ…下役人…宮こ(感の極み)」「心あらば…風流な・優雅な心があれば…女を思いやる心があれば」「この春…此の春…子の張る」「朝…浅」「きよめ…清め…清掃…乱れ淫らなものを清浄にする」

 

歌の清げな姿は、咲き散った桜花、塵芥のように清掃するな、おとこの魂のなみだよ。

心におかしきところは、門まもり人の宮こを、思い遣る心あるならば、張るあるかぎり、浅はかに見捨てるな。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

和歌解釈の変遷について述べる(再掲)


 江戸時代の国学から始まる国文学的な古典和歌解釈は、平安時代の歌論や言語観から遠く離れてしまった。

和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸のようである。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式のようである。万葉集の人麻呂、赤人の歌は、明らかに、この様式で詠まれてある。

歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落していた。これを以て、乞食の旅人は生計の糧としたという。歌は門付け芸と化したのである。歌は「色好みの家に埋もれ木」となったという。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。人麻呂、赤人の歌を希求し、古今集を編纂し、歌を詠んだ。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。

江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。それが、今の世に蔓延ってしまった(高校生の用いる古語辞典などを垣間見れば明らかである)。平安時代の人が聞けば、奇妙な解釈に、笑いだすことだろう。

公任の云う「心におかしきところ」と「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」と俊成の云う事柄と共に、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。


帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (三百九十四)(三百九十五)

2015-09-14 00:08:00 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。

今の国文学的な和歌解釈の方法は棚上げしておく。やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な方法であることに気付くだろう。

 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

小野宮のおほいまうちぎみの家にていけのほとりのさくらを見て

 元輔

三百九十四  さくら花そこなるかげぞをしまるる しずめる人のはるとおもへば

小野宮の大臣(藤原実頼・公任の祖父)の家にて、池のほとりの桜を見て (清原元輔・清少納言の父)

(桜花、底に映っている影ぞ、惜しまれる・残念に思える、世に・沈んでいる男の春と思えば……おとこ端、逝けの・底にある陰りぞ、惜しまれる、しずめた女の、いまは・春と思えば)

 

言の戯れと言の心

「さくら花…桜花…男花…おとこ花…男端…おとこ」「はな…花…先端」「そこ…其処…(池の)底…(逝けの)底」「かげ…影…陰…陰の部…陰り…衰え」「をしまるる…惜しまれる…残念に思える…捨てがたい…愛おしい物と思う」「しずめる…鎮める…静める…沈める」「人…男…人材…女」「はる…春…この世の春…この夜の春情」

 

歌の清げな姿は、世の不遇の人材を惜しんだ・不遇のわが身分を訴えた・我が身の老い衰えを惜しんだ。どのように聞くか、聞き耳によって異なる。

心におかしきところは、おとこの盛りは、山ばより逝けの底にうち沈んだ、惜しまれる、鎮め沈めた女の井間は春と思えるので。

 

「心におかしきところ」がなければ、歌ではない、ただの訴状である。

 

「清少納言枕草子」に、公任が仕掛け、清少納言の応じた、即興的合作の春歌が有る。

 空さむみ花にまがへてちる雪に すこし春ある心ちこそすれ

表面の意味は、誰でもわかる早春の景色である。そんな平板な意味にしか聞こえないのは、「聞き耳」が、平安時代の人々と全く異なってしまったためである。初な女を装った歌の、「心におかしきところ」と殿上の男どもの反応ぶりは、当ブログ、帯とけの枕草子(百二)で、ご覧ください。

 

 

延喜御時月令御屏風に              凡河内躬恒

三百九十五  さくら花わがやどにのみ有りとみば  なきものぐさはおもはざらまし

延喜の御時の月なみの御屏風に          凡河内躬恒

(桜花、わが家にだけ有ると思えば、もとより無き、銭・地位・女などは、思わないだろうに……おとこ花、わが屋門にだけ有ると、思って・見ていれば、亡き物を女は、且つ乞うと・思わないだろうになあ)

 

言の戯れと言の心

「さくら花…男花…おとこ花」「やど…宿…家…屋門…言の心は女」「みば…見れば…思えば…見尽くせば」「見…覯…媾…まぐあい」「ものぐさ…物種…物事の原因となる種々の物…金・財産、地位・身分、女・子供など…もの草…物、女」「草…言の心は女」「ざらまし…(思わない)だろうになあ」「まし…仮に想像する意を表し、その上に、不満や意向を込める」

 

歌の清げな姿は、世の中は桜の花盛り、これわが家にだけ有ると見れば、他に何物も欲しいと思わないだろうに。

心におかしきところは、夜のおとこ花、すべてわが物と見ていれば、無い物ねだりはしないだろうになあ。

 

両歌は、ほぼ共通した堕ち窪んだ境地に伏したおとこ、その男の思いを述べている。

 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

和歌解釈の変遷について述べる(再掲)


 江戸時代の国学から始まる国文学的な古典和歌解釈は、平安時代の歌論や言語観から遠く離れてしまった。

和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸のようである。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式のようである。万葉集の人麻呂、赤人の歌は、明らかに、この様式で詠まれてある。

歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落していた。これを以て、乞食の旅人は生計の糧としたという。歌は門付け芸と化したのである。歌は「色好みの家に埋もれ木」となったという。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。人麻呂、赤人の歌を希求し、古今集を編纂し、歌を詠んだ。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。

江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。それが、今の世に蔓延ってしまった(高校生の用いる古語辞典などを垣間見れば明らかである)。平安時代の人が聞けば、奇妙な解釈に、笑いだすことだろう。

公任の云う「心におかしきところ」と「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」と俊成の云う事柄と共に、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。