帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第八 離別歌 (400)飽かずしてわかるゝ袖のしらたまを 

2018-01-24 20:22:41 | 古典

            

                       帯とけの「古今和歌集」

                                             ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。

 

古今和歌集  巻第八 離別歌

 

 

題しらず              よみ人しらず

飽かずしてわかるゝ袖のしらたまを きみが形見と包みてぞ行

(題しらず)              (詠み人しらず・匿名で詠まれた女の歌として聞く)

(飽かずして別れてしまう、わたしの涙の真珠を、君の形見と思って袖に包んで、行く君を思う……満足できずして離される、身の端の白玉を、貴身の遺品と、筒見てぞ、わたしも逝くの)。

 

 

 「飽かずして…満足できず…心ゆかず」「わかる…別れる…分かれる…離れる」「ゝ…る…される(受身)…てしまう(自然にそうなる)」「袖…衣の袖…身の端…おんな、おとこ」「しらたま…真珠…白玉…涙の玉…おとこの白い涙」「きみ…君…貴身」「つつみて…包みて…慎みて…包み隠して…筒見て」「見…覯…媾…まぐあい」「筒…空洞…おとこを侮辱や揶揄する言葉」「行…ゆく(体言止め、余情がある)…逝く」。


 これらが、藤原俊成の言う「浮言綺語に似た歌言葉の戯れ」である。国学も国文学もこれを無視して一義に解釈したが、すべてを引き受けて和歌を聞けば、「心におかしきところ」が顕れる。

 

離別される、女のあきらめに似た情況――歌の清げな姿。

飽き足りぬまま分け離される、おんなの本音、これを俊成は煩悩即菩提と言った――心におかしきところ。

 

山ばの果ての男らの勝手な思いに対抗する、おんなの本音の歌が以下四首続く。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)




帯とけの「古今和歌集」 巻第八 離別歌 (399)わかるれどうれしくもあるか今宵より

2018-01-22 20:05:36 | 古典

            

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。

 

古今和歌集  巻第八 離別歌

 

兼覧王に初めて物語して、別れける時によみける 躬恒

わかるれどうれしくもあるか今宵より あひ見ぬさきに何を恋ひまし

(兼覧王に、初めて世間話して、別れた時に詠んだと思われる・歌……かねみのおおきみにおかれては、初めて、あのものの話されて、別れた時に詠んだ・歌)(みつね)

(別れるけれど、楽しみでもあるなあ、今宵より、お逢いできない前は、もしお会いできれば、何の話を恋しいと乞うだろうかと……山ばで、おんなと別れるけれど、楽しみだなあ、小好いより、仮に合い見ない前におんなは、何を乞い恋しがるだろうかと)。

 

 

「に…(話の相手などを)示す…(身分の高い人を主語にすることを避けて)におかれては」「物語…世間話…もの語り…ものの話…(はっきり言い難い)あの話…話をされたのは兼覧王である」。

「今宵…小好い」「恋ひ…乞い」「まし…(仮想してそこに願望などの意を込める)お逢したい、おはなしの先が聞きたい」。

 

もののお話、興味深々、仮にもまたお逢するのが楽しみです、なにの話を乞おうかな――歌の清げな姿。

山ばで、おんなと別れるのはつらいけれど、楽しみでもあるなあ、小好いより、仮に合い見ない前におんなは、何を乞い、わが貴身を恋しがるだろうかと・山ばの果てのおとこの勝手な思い――心におかしきところ。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第八 離別歌 (397)秋萩の花を雨にぬらせども(398)おしむらん人の心を知らぬまに

2018-01-20 19:17:17 | 古典

            

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。

 

古今和歌集  巻第八 離別歌

 

雷壺に召したける日、大御酒など賜べて、雨の

いたう降りければ、夕さりまで侍りてまかり出

でける折に、さか月を取りて、     貫之

秋萩の花を雨にぬらせども 君をばましておしとこそおもへ

(内裏の北東の隅にある詰所にお召しになられた日、男ども大御酒など賜って、雨がたいそう降ったので、夕ぐれまでお側にいて、みな出でた折に、さかつきを手にもって・詠んだ歌)(つらゆき)

(秋萩の花を、しぐれに濡らしたままの別れは・つらいけれども、君をば、なおいっそう名残惜しいと、思う……厭きた端木・さかつきを、その時のおとこ雨に濡らすのも残念ながら、なおさら、濡れたわが貴身をば、名残惜しく思う)。

 

 

「さか月…盃…逆手に持った月人おとこ…わが貴身」「月…月人壮士…月の言の心は男…おとこ」。

「秋萩…ものの名は戯れる。飽き端木、厭きのおとこ」「花…おとこ花…おとこ端」「雨…時雨…その時のおとこ雨…冷たいおとこあめ」「君…貴身…わが身…わがおとこ」「おし…惜し…愛おしい…見捨てられない…愛着がある」。

 

秋萩の花を、しぐれに濡らしたままの別れは、つらいけれども、君をば、まして名残惜しいと、思う――歌の清げな姿。

厭きた端木を・手に持ったさか月、その時のおとこ雨に濡らすのも残念ながら、濡れたわが貴身をば、なおいっそう愛おしく惜しと思う――心におかしきところ。

 

 

とよめりける返し           兼覧王

おしむらん人の心を知らぬまに 秋のしぐれと身ぞふりにける

     (と詠んだ返歌)             (かねみのおほきみ・惟嵩親王の子・紀氏と縁深い人

(惜しむであろう人の心を、気づかかない間に、秋のしぐれととともに、我が身も、古り、老いてしまったことよ……愛おしみ惜しむであろう女の心を、気づかない間に、厭きのその時の冷たいお雨とともに、我が身も古びてしまったなあ)。

 

 「人…人々…男ども…女」「秋のしぐれ…厭きの時雨…厭きの冷たいおとこ雨」「と…と共に…となって」「ふり…降り…古り…歳老いる」「ける…けり…気づき・詠嘆の意を表す」。

 

諸君を引き留めてしまった、人の心に気付かぬまま、われはもうろくしたことよ――歌の清げな姿。

愛おしみ惜しむであろう女の心を、気づかない間に、厭きのその時の冷たいおとこ雨とともに、我が身も古びてしまったなあ――心におかしきところ。

 

両歌の「心におかしきところ」に、しぐれに濡れて帰る男どもの心は和むだろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第八 離別歌 (396)飽かずしてわかるゝ涙たきにそふ

2018-01-18 20:25:51 | 古典

            

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。

 

古今和歌集  巻第八 離別歌

 

仁和帝、親王におはしましける時に、布留の滝

御覧じにおはしまして帰り給ひけるに、よめる

兼芸法師

飽かずしてわかるゝ涙たきにそふ 水まさるとや下や見ゆらむ

(仁和帝が親王であられた時、布留の滝、御覧になられて、お帰りになられたので詠んだと思われる・歌)(兼芸法師)

(飽かずして、君と別れてしまうわが涙、滝に沿う、水かさ増すと、下流で見えるだろうか……厭かずして、山ばで別れてしまう、わがものの涙、多気女に添う、をみな、情愛増すと、しもや、見ているだろうか)。

 

「仁和帝…光孝天皇・仁明帝第三皇子…五十数歳で即位された、まもなく藤原基経は関白太政大臣となる」「布留…地名・滝の名…名は戯れる。古い、老いた」「滝…言の心は女…多気…浮気…多情」。

「あかずして…飽かずして…厭かずして…満足できないまま」「わかるゝ…人と別れる…山ばと離れる」「水…水の言の心は女」「しも…下…下流…下半身」「見ゆ…見える…思える」「見…覯…媾…まぐあい」。

 

別れの涙の超誇張表現――歌の清げな姿。

満足せずして、山ばで別れてしまう、わがおとこ端の涙、老いた多気女に添う、情愛増すと、しもや、見ているだろうか――心におかしきところ。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第八 離別歌(394)山かぜにさくら吹きまき(395)ことならば君とまるべく

2018-01-17 20:15:57 | 古典

            

                      帯とけの「古今和歌集」

                     ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。

 

古今和歌集  巻第八 離別歌

 

雲林院親王の舎利会に山にのぼりて、帰りけるに、

桜の花の下にてよめる        僧正遍昭

山かぜにさくら吹きまきみだれ南 花のまぎれに立とまるべく

雲林院親王(仁明帝第七皇子・遍昭の一年のちに出家)舎利会に山に上って、帰ったときに、桜の花の下にて詠んだと思われる・歌)(遍昭・仁明帝にお仕えしていたが崩御とともに出家)

(山風で、桜吹き巻き上げ、乱れてほしい、親王の君は、花の紛れに立ち止まり、山寺でお泊りになられるだろう……山ばの心風に、おとこ花、吹き巻き乱れるといい、おとこ端のまぎれに、立ち止まり、もの伏すでしょう)

 

 

「山風…山おろしの風…山ばの心風」「心風…飽きかぜ…厭きかぜ」「さくら…桜…木の花…おとこ花」「みだれ南…乱れなむ…乱れてほしい…みだれるといい」「なむ…して欲しい…希望する意を表す…当然の意を表す」「立ちとまる…立ち止まる…ものが伏す…煩悩絶ち止まる」「べく…べし…するだろう…するにちがいない」。

 

 

山風で桜吹き巻き上げ、乱れてほしいな、親王の君は、花の紛れに立ち止まり、山寺でお泊りになられるだろう――歌の清げな姿。

山ばの心風に、おとこはな、吹き巻き乱れるといい、おとこ端のまぎれに、立止まり、もの伏し、煩悩絶つことでしょう――心におかしきところ。

 

もの絶ち、伏すだろう、そうするtといい。出家の勧め。


 

 

幽仙法師

ことならば君止るべくにほはなむ かへすは花の憂きにやあらぬ

(幽仙法師・遍昭より二十年ほど若い人)

(できることならば、親王の君、泊まるだろうほどに、美しく咲き誇ってほしいな、お帰しするのは、桜花が、嫌がるのではありませんか……山ばに成ったならば、親王の君、止まるにちがいないほど、女ども色美しく盛ってほしいな、繰り返すのは、おとこさくら端が、気が進まないのではありませんか)。

 

 

「ことならなば…できることならば…事が成ったならば」「にほはなむ…色美しく咲いてほしい…色美しく盛ってほしい」「かへす…帰す…返す…繰り返す」「花…木の花…さくら花…おとこ端…おとこ」「木…言の心は男」「憂き…嫌だ…気が進まない」「にやあらぬ…ではないだろうか…であろうか」。

 

できることならば、親王の君、泊まるだろうほどに、美しく咲き誇ってほしいな、お帰しするのは、桜花が、嫌がるでしょうか――歌の清げな姿。

山ばに成ったならば、親王の君、絶ち止まるにちがいないほど、女ども色美しく盛ってほしいな、繰り返すのは、おとこさくら端が、気が進まないのではありませんか――心におかしきところ。

 

おとこ端の煩悩絶つとき、狙い時。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)