空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

妙好人の世界

2010-10-17 01:09:19 | 本と雑誌

 ここ1、2週間、実家と自宅とを行き来する電車の中で、『妙好人の世界』(楠恭、金光寿郎著、法蔵館)という本を読んでいる。NHKラジオで放送されたものをまとめたもので、以前に購入したまま積ん読状態になっていた。

 日本に伝わった仏教は、伝わった時期、宗派によって、ずいぶん違うように見えるが、勉強してみると(系統的なものではなく、わからないことがあればこの本、それでもわからなければあの本というふうに、飛び石を伝うようにあれこれ読んできた)、何となく仏教の基礎知識だと思っていた事柄が、実は、仏教の本質とはあまり関係がないということがだんだん分かってきた。

 「自力か、他力か」ということも、その一つである。

 私が学校で習ったころの歴史の教科書には、「他力とは、浄土真宗に代表されるように、ひたすら弥陀の本願にすがる宗教」、「自力とは、禅宗のように、厳しい修行で悟りを開く宗教」というふうに書かれていたように思う。そういう理解の仕方であるから、「私には、他力より自力のほうが性に合ってるかも」などと、浅薄なことを考えていたものである。

 仏教に限らず、本来、宗教というものは、他力か、自力かというような二元的世界を超えたところで人間に働くものではないかと思う。「他力か、自力か」などと言っているときにはまだ他人事である。切羽詰って藁をもつかみたい、天から垂れてきたクモの糸にもすがりたい、というような場面でこそ、一人の人間に働きかけるのだ。

 そういうことが私なりに納得できるようになったのは、両親の介護という壁の前で、心身ともに疲れ果てたときだった。頭が空っぽになって、夜中、部屋に閉じこもって、大声をあげて、子どもが泣きじゃくるように泣いた。

 妙好人についても、深い考えはなかった。なぜ、この本を買ったのか。「こういう分野も勉強しておかなくちゃ。いつか時間のあるときに読もう」というぐらいの気持ちで購入したのだと思う。購入してすぐに読んでいたら、「真宗の模範的な信者のことを書いた本」という理解から1歩も進んでいなかったと思う。

 敬愛する文化人類学者、岩田慶冶さんが、『道元の見た宇宙』という名著のあとがきで、「本を読む〈とき〉は、本との〈出会いのとき〉である。出会いはいつも突然に、驚きとともにやってくる。〈出会いのとき〉は〈無心のとき〉でなければならない」と書いておられる。この『妙好人の世界』は、まさに、「本を読む〈とき〉」に読んだ、という気がしている。

 対談なので分かりやすいということもあるが、楠恭氏の言葉が私の心にずんずん響いてきて、電車の中で泣いてしまった。鼻炎のふりをして何度もティッシュで鼻をかんだ。

 楠氏はかの鈴木大拙師の弟子である。「学問や教学は宗教経験から出て来るものである。先ず宗教経験を得ると、阿弥陀仏も、浄土も、浄土往生も、信心獲得ということも、救済ということもみなわかってくる」という鈴木師の言葉を冒頭で紹介している。

 この宗教経験というところから見ると、「物種吉兵衛」「因幡の源左」「浅原才一」という妙好人の、たどたどしい言葉で表現された世界と、「唯仏与仏」「身心脱落」「本証妙修」という言葉で道元禅師が示された世界とが、重なってくるように思った。

 妙好人の世界から光を当てると、道元禅師の言葉が理解しやすくなったといってもいい。

 この本は、まだ読んでいる途中なので、この続きは読了後、あらためて書くつもり。