空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

縁起・空・中道

2010-12-06 00:34:30 | 日記・エッセイ・コラム

 勝本華蓮さんが主宰する「みんなの仏教塾」に行ってきた。

 最終回のテーマは、「人生は中道で」。

 世俗世界では絶対にあると思っている自己も、ものごとも、縁起によって仮に存在しているだけである(世俗締=仮)。お釈迦さまは、その世俗締を解脱して、存在の本質は空であると知ることで、涅槃静寂の悟りを得た。その悟りの世界の真理を勝義締という。

 けれども、勝義締の基準をそのまま世俗世界に当てはめると、いろいろ不都合が生じる。

 オウム真理教は、勝義締の基準を世俗締に当てはめ、人間存在は空であるから、人を殺しても殺したことにはならないという理屈で、平気で人を殺した。

 オウムに限らず、イデオロギーをそのまま、現実世界に持ってきて、間尺に合わないものを平気で切り捨てることは、よく見られることである。

 旅人を寝台に横たえて、寝台からはみ出た足を切ったり、足りない分は無理やり引き伸ばしたりした、ギリシャ神話の盗賊、プロクルーステースみたいな人々だ。

 お釈迦さまが説いているのは、中道。

 一面的な見方を捨てて、空、仮(け)、中を同時に見ることが大切だと説かれた(一心三観)。

 中道に身をおくことは、とても難しいと思う。一つの物差しで、快刀乱麻、バッサリと判断を下すほうが楽だからだ。

 勝本さんの話が一段落して、質疑に入ったところで、私は、前回の「空、縁起」についての講義のあと、電車の中で、不思議な気持ちにとらわれたという話をした。

 電車の車窓から、暮れなずむ街を見ているうちに、「この風景はすべて空だ。縁起によって刹那、刹那、仮に成り立っている世界だ。この街の明かりの下にいる人々も、すべて、空だ。ひとり、ひとり、みんな人生のドラマを持っている。それも、すべて、空、縁起の世界だ」というふうに風景を見ている自分がいた。

 そのように車窓の風景を見ていると、なんとも言えない寂しさ、虚無感に襲われた。

 暗黒の宇宙に、私一人がただよっているような寂しさ。

 勝本さんは、「だから、空を知って、もう一度、世俗に戻ってくることが大事なんです。修行完成者=仏陀も、空にとどまらずに、Uターンされた。それが大事なんです」と言われた。

 私は、空と縁起を体得するとはどういうことなのか、空を体得して世俗を見た場合、どのように見えるのか、もし、体験があるのなら、そこのところを聞いてみたかった。

 けれども、話しているうちに、そのときの寂しさがよみがえり、涙が出てきて、詳しくは聞けなかった。

 そのうちに、どうして、仏教なのかという話になった。

 仏教に関心をもつきっかけは、人それぞれだ。

 勝本さんは、仏教を広めようとは思わないと言われたが、仏教塾を開いて、縁ある人々に話をしていることは、仏教を広める行為に違いない。

 私は特定の師匠を持たず、縁があればあちこち出かけて行って、仏教の話を聞く。それだけでも、ずいぶん勉強になるし、そのとき聞いた話が、偶然にも、自分が置かれている状況にぴったりだということも多い。

 勉強すればするほど、仏教は、現代に生きる人間にとって、大事なことを教えてくれる。

 仏教は宗教ではなく、哲学だという人もいる。しかし、私は、仏教は、やはり、宗教だと思う。

 哲学は、私という自己が厳として存在する、世俗締の世界である。

 世俗の真理では解決できないものがあるから、人間は苦しむのだ。

 苦を滅するには、自我を捨てるしかない。

 自我を捨てるには、お釈迦さまが説く道を歩むしかない。

 歩むための手立て、明かりが、信仰ではないのかなと思ったりする。