空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

お盆の墓参り

2017-08-17 18:01:41 | 日記

 夏バテやら、風邪やらで、お盆の墓参りが16日になってしまった。猛暑で、出かけるのがおっくうだったせいもある。

 何しろ、駅から墓まで、影一つない道を20分は歩かなければならない。

 両親の介護をしていた時から、スーパーへの買い物帰りに立ち寄っていた珈琲亭が、お盆にもかかわらず開いていたので、ホッとする。久しぶりなので、マスターも喜んでくれた。

 たまっていたポイントで、東ティモールの豆100gを購入。コーヒーチケットがちょうど1回分残っていたので、ルワンダのコーヒーをいただく。あの部族同士の争いで、虐殺が起きた国だ。

 ルワンダは標高1000~2000mの高原の国で、植民地時代からコーヒーの産地だったが、内陸部で輸送手段がなく、あっても高くつくので、これまであまり市場に出回らなかったのでそうだ。

 ルワンダ産のコーヒーを飲むのは初めてだ。スッキリした、パンチのある苦みと酸味がほどよく調和して、暑さを吹き飛ばしてくれる。

 あとで、ネットで調べてみると、大量虐殺事件からの復興の過程で、スペシャリティコーヒーの生産に力を入れるようになり、コーヒー栽培に適した気候と、農薬を使わず、有機肥料も使わない自然栽培で、質の良いコーヒーが生産されるようになったそうだ。

 小規模農家による栽培で、虐殺で男性が少なくなって、担い手の多くは女性だそうだ。

 これを知って、ルワンダの豆も買えばよかったと、残念に思った。

 コーヒーで息を吹き返して、墓地に向かう。どのお墓もお参りが済んで、新鮮な花で飾られている。

 暑い中、墓の掃除。草抜きをしていると汗がぽたぽた落ちる。花は前日に、弟夫婦が新しく供えてくれていた。

 家の宗教は神道だが、祝詞をそらで唱えられないので、いつも般若心経を唱える。

 気になっていた墓参りが済んでホッとした。

 実家に帰ると、草が生い茂って、とんでもないことになっていた。5月に兄弟で草刈りをしたのだが、夏草の勢いはすさまじい。

 せめて、キンカンと、ユズの木を覆っているツル草だけを処分しようと、根元を鎌で切り、枝に絡まっているツルを引きずり降ろすのだが、思ったよりかなり大変だった。

 しかも、夏も終わろうとしている時期に、久しぶりに人間が現われたので、やぶ蚊どもが一斉に私の皮膚に群がる。

 たまらず家の中に逃げ帰って、腕を見ると、腫れあがって、まるで海のホヤのようになっていた。シャワーを浴び、ホヤのように腫れあがった腕全体に、ムヒを塗る。

 それから、気になっていた家の中の掃除。窓を開けて風を入れ、階下と2階と、全部の部屋を、クイックルでほこりを払い、掃除機をかけた。

 クーラーを入れずに掃除したので、また汗びっしょりになり、シャワーを浴びる。

 そして、最後に、神棚にお参りをした。大きな声で祝詞をあげた。これでスッキリした。

 帰り道で、隣の奥さんに会ったので、草ぼうぼうにしていることを詫びた。隣の庭は、草一本も生えないように、いつもきれいにしているので、我が家の草が気になっているに違いない。

 秋までに、弟たちに声をかけて、草抜きに来なければと思う。

 今回の墓参りで気づいたことがある。

 今まで、田んぼを見ると、介護で大変な思いをしていたころを思い出し、胸が苦しくなっていた。

 母が大たい骨を骨折して手術した病院に通うときも、周りの田んぼには稲が青々と茂っていたし、リハビリ病院に転院したときも、青々とした田んぼの脇を毎日、病院に通った。

 父が、施設に入る前、最後に入院していた病院も、周りは田んぼだらけの、遠いところにあった。

 だから、田んぼを見ると、いろいろ思い出されて悲しくなり、胸が苦しくなってくるのだ。

 ところが、この日、田んぼをみても、きれいに出そろった稲を、夏の風景として美しいと思って見ただけで、苦しさを感じなかった。

 いわゆる介護のPTSDから、解放されたようだった。