友人と発行している同人誌に書いた文を転載します。
「与格小説」考―井上靖『敦煌』『風濤』を読む
今年4月ごろだったか、NHK・ BSプレミアムの「深読み読書会」という番組で、 井上靖の『敦煌』を取り上げていた。
『敦煌』は映画化もされたが、映画も見ず、原作も読んでいないので、どんな小説なのかまったく知らなかった。
莫高窟の仏教壁画や、大量の仏典が発見された、仏教遺跡としての敦煌に関心があったので、番組を見た。
「深読み読書会」の出演者は、高橋源一郎、小林恭二、中島岳志、サヘル・ローズという面々。
出演者が『敦煌』を読んで独自の解釈を展開するなかで、中島岳志氏が「この作品は与格小説である」と評したのが記憶に残った。
原始仏典を読むために勉強しているパーリ語に、日本語にはない「与格」という文法格があったので、「与格」という言葉に反応したのである。
◇与格とは
中島氏は、ヒンディー語を例にとって「与格」の説明をしていた。
ヒンディーは現在もインドの公用語として最も多く使われている言葉である。
パーリ語は古代インドのプラークリット(俗語)の一つだが、今は原始仏典の中に残っているだけである。
文字を持たず、上座部仏教(初期仏教)が伝わった国の文字(スリランカのシンハラ文字、カンボジアのクメール文字、タイ文字、アルファベットなど)で記述され、実際の生活の中では使われていない。
一方、サンスクリット(文語、雅語)は文学、哲学、学術、宗教の分野で使われた。
大乗経典はサンスクリットで書かれている。
文字((梵字)を持ち、現在も使われている言語である。
サンスクリットもヒンディーも、パーリ語も、同じインド・アーリア語なので、文法は似ている。
与格とは、名詞・代名詞の格の一つ。
パーリ語の格は8つあって、主語にあたる格は主格 nominative、目的語にあたるのは対格accusative という。
与格 dative は、パーリ語文法のテキストでは、「受益者、~for,~to ~のために、~に」と説明されている。
「彼は私に(私のために)本をくれた」という文章を例にとると、「彼は」が主格、「私に(私のために)」が与格、「本を」が対格になる。
この一文を書くために、与格について詳しく調べてみたら、とても分かりやすい解説を見つけた。
与格 dative は、ラテン語の do(与える)の過去受動分詞 datus( 与えられたもの)に -iveがついて形容詞になったもので、与格とは「与えられたものの行き先」を説明したものだそうだ。
なるほど、だから「与格」というのか。
また、大阪大学外国語学部ヒンディー語のサイトを見ると、
「意味上の主語、あるいは動作・状態の結果が及ぶ対象に後置詞 को を添えて、人格の意志や力の及ばない、感情、生理的な現象、嗜好、状況、事態、また行為の結果や影響などを表現する特徴的な構文を与格構文と呼ぶ」
という説明があった。
この説明によるならば、『敦煌』を「与格小説」と呼んだ中島岳志氏の意図がよくわかる。
中島氏の説明によると、
「私は風邪をひいてしまった」という文章が、与格表現では「風邪が私の中に入ってきてとどまっている」となり、
「私はあなたを愛している」は、「あなたへの愛が私の中に入ってきてとどまっている」という表現になる。
◇『敦煌』を読む
では、与格小説としての『敦煌』はどんな作品なのか。
11世紀、宋の第4代皇帝・仁宗の時代、主人公の趙行徳は、科挙の試験を受けるために宋の都・開封に上るが、最後の試験の順番を待つ間、眠りに落ち、失敗してしまう。
街をさ迷っているうちに、肉として売られている西夏の女を助ける。
女が礼にと差し出した布片には、見慣れない西夏文字が記されていた。
行徳は西夏文字を何とか読みたいと思い、西夏の都、興慶を目指す。
タングート族の西夏は、シルクロード交易の要衝である一帯の支配権を得ようと、吐蕃(とばん)、回鶻(ういぐる)など、他の民族と戦闘を繰り返していた。
途中、行徳は捕らえられ、西夏の漢人部隊の兵士にされてしまう。
読み書きができたため、部隊の隊長で、漢人の朱王礼に認められる。
回鶻の拠点、甘州を攻めたさい、回鶻王族の若い女を見つけ、かくまって世話をするうち、愛するようになる。
しかし、興慶に行く機会を得た行徳は、1年後には戻ると約束し、女を隊長の朱王礼に託して旅立つ。
興慶で西夏文字を学び、漢字との対照表を作成しているうちに、行徳は約束を忘れ、ようやく甘州に戻った時には、女は西夏の太子、李元昊の妾にされていた。
女は城壁から身を投げて死ぬ。
戦闘に明け暮れる日々が過ぎ、西夏に降った瓜州の太守から、経典を西夏語に翻訳する仕事を頼まれ、翻訳にいそしんでいたが、西夏王となった李元昊の軍が瓜州へ入城する直前、朱王礼が反乱を起こす。
朱王礼も回鶻の女を愛しており、李元昊を恨んでいた。
しかし、朱王礼は敗れ、一行は沙州(敦煌)へ逃れる。
西夏軍の攻撃を前にして、沙州の人々が財宝や家財をまとめて逃げる準備に追われるなか、行徳は寺にある膨大な仏典を救おうと思い立つ。
隊商の商人、尉遅光から、財宝を隠せる洞窟があるという話を聞き、行徳は財宝を運ぶと偽って、尉遅光の手下の手を借り、僧たちとともに仏典をラクダに積み、洞窟へ運び込んで、入り口を封印した。
その後の敦煌の歴史、1900年代初めに敦煌が発見され、多くの経典がスタインはじめ外国の探検隊に持ち出された顛末を記して、小説は終わる。
この小説の一応の主人公は趙行徳であるが、彼の行動は、自分の意志とは関係ない、その時々の状況に影響され、「ふとしたことで」「いつのまにか」次の場所に身を置くことになるのである。
「深読み読書会」でも誰かが言っていたように思うが、本当の主人公は「敦煌」という舞台であり、その時代、シルクロード一帯で繰り広げられた歴史そのものである。
行徳はじめ、登場人物たちは、自分の意志や力の及ばない、砂漠の歴史の激流のなかで生き、死んでいく。
まさに「与えられたものの行き先」として、存在している。
その意味で、中島氏は「与格小説」と呼んだのだろう。
行徳が西夏軍を迎え撃つ前に宿舎で休んでいるとき、この場所に来るまでの時間をさかのぼって辿る場面がある。
「水が高処より低処へ流れるように、極く自然に自分は今日まで来たと思った。
開封を発って辺土にはいり、それから西夏軍の一兵として辺境の各地を転戦し、その挙句の果 てに叛乱部隊の一員となり、いま沙州の漢人と一緒になって、西夏軍との間に死闘を展開しようとしている。
もう一度新しく人生をやり直したとしても、同じ条件が自分を取り巻く限り、やはり自分は同じ道を歩くことだろう。
(中略)後悔すべき何ものもなかった。
開封から沙州までの幾千里の道を、その緩い傾斜面を、自分は長い歳月を費して流動して来て、いまここに横たわっているのである。」
状況に翻弄されながらも後悔せず、自然と受け止める行徳の感慨を記した場面が何カ所か出てくる。
高橋源一郎氏は、「『敦煌』は井上靖の自伝である」と発言している。
井上は5歳から13歳まで、両親から離れ、戸籍上の祖母、実は祖父の妾であった人に育てられている。
日中戦争で出征した経験もある。
行徳のような与格的な生き方は、井上自身も身につけていたものかもしれない。
(つづく)