◇『風濤』を読む
『敦煌』を読んだ話を友人にしたら、本棚に眠っていたという、文字がぎっしり詰まった新潮文庫の『風濤』を譲ってくれた。
『敦煌』は1959年に書かれ、4年後の1963年、『風濤』が発表された。
高麗国が元の支配下に置かれた時代、皇帝、フビライハンは日本攻略のために、高麗の国力をはるかにしのぐ数の軍船の建造、兵士、船頭、食糧の調達など、次々と命令を下す。
元の兵站基地と化した高麗の混乱、疲弊していく様が描かれている。
井上靖は『風濤』の中で、歴史文献(主に「高麗史」)を頻繁に引用している。
その漢文の書き下し文に挟まれるようにして、高麗王の元宗、その息子の忠烈王、李蔵用、金方慶ら重臣たちの、国を存立させるために苦心する様、丸裸にされていく国の惨状が語られている。
今は亡き篠田一士氏が書いている巻末の解説が素晴らしい。
井上靖は、『天平の甍』に始まり、『楼蘭』『敦煌』「蒼き狼』『風濤』の一連の作品を自ら「西域小説」と命名していた。
篠田氏は、それが題材的な事柄ではなく、小説そのものの本質的な要素を指す言葉ととらえている。
「人事がほとんど無力に近い西域の砂漠のなかでは時間は広々漠々たる空間のなかへ吸収されてしまい、その用をなさないかのようにみえる。
(中略)井上氏が『西域小説』の名の下に目指したのは、人事はもちろん、人事を背後から支えて、その多彩な変転を色あざやかにみせる時間に背を向け、ただ荒漠たる空間の拡がりのみを読者に現前させようということである。
その空間を、自然と言いかえてもいい。時間の軛(くびき)から離脱して、永遠の域にほとんど達したような自然。だが、これを小説において志すのは、およそ近代小説の本意にそむくことである。」
そして、「人事世態を細かく描き、その間に経過する時間の流れを読者に強く感銘づける」近代小説の手法に対して、「西域小説」を反近代小説と位置付け、『風濤』が「『西域小説』を志した井上氏の詩的正義をはるかによく実現した」作品だと評価している。
「『風濤』の眼目は、外ならぬフビライそのひとである。この小説を一貫して、たえず、大小さまざまな風が吹きすさび、また、高低さまざまな濤(なみ)がうねり、たかまってくるが、それらはすべて、このひとりの人物から発する。フビライを、人物とよぶにはあまりにも怪物じみている。」
篠田氏がこのように展開している小説論は、中島岳志氏の「与格小説」と言いかえてもいいと思う。
登場人物たちは、『敦煌』では、シルクロードで繰り広げられた歴史に翻弄され、『風濤』では、怪物のようなフビライから発せられた、さまざまな風、波に翻弄されながら生き、死んでいく。
◇「与格」的生き方
「与えられたものの行き先」という説明は、「与えられたものを入れる器」と言い換えてもいいのではないか。
というのは、私は文法用語としての与格に引き付けられただけではなく、中島氏の説明を聞きながら、「私の生き方は与格的だなあ」と思ったのである。
周囲には意志の強い、気の強い人間だと思われがちであるが、自分では、意志薄弱で、自ら道を選ぶというよりは、流され流され生きてきて、ふと気が付いたら今の自分があると思っている。
自己実現だの、フェミニズムだの、自分をしっかりもって生きるべきだという社会的風潮の中で育ったので、若いころは、そんな自分が嫌で、ずいぶん肩肘張って生きてきた。
ところが年を取るにつれて、流されて生きてきた自分は正解だったのではないかと思うようになった。
その方が楽で、自分に合っているのだ。
いろいろ関心を持ったこと、学んだこと、経験したこと、出会った人々が、私という器の中で、最初はばらばらに存在していたが、次第にまとまり、私の背丈に合うように収まりよくなってきた。
「ああ、これはこういうことだったのか」と少しずつではあるが、納得できるようになった。
中島氏の「与格」の説明を聞いたとき、自分の生き方が「与格的」という言葉で説明できるということを発見したようで、うれしかった。
大学時代の友人がたまたま電話をくれたとき、その話をした。
彼女は「私は昔からそう思っていたわよ。あなたは昔から与格的だったわよ」と即座に答えた。
本人より彼女の方が、私という人間をよく見ていたのである。
人間を「与えられたものを入れる器」と解釈すると、仏陀が説いた「縁起の法」とも重なってくる部分があるように思える。
「縁起の法」とは、すべての現象は、そのもの自身として独立して存在することはなく、あらゆる原因や条件が互いに影響し合い、作用しあった結果として生起するという真理をいう。
人間も、縁起の結果としての、今この一瞬の「私」としてしか存在しない。
このような存在の在り方を「空」という。「色即是空」の「空」である。
インターネットで与格のことをいろいろ調べているうち、今年1月、真宗教団連合で中島氏が講演した内容が出てきた。
その講演で中島氏は、
「(与格では)言葉が私にきて留まっている。私が言葉の器なのである。私がいなくなっても、言葉は器を変えて継承されていく。親鸞は『言葉の器』になりきることによって何かを表現できると考えた宗教家である」
と語っている。
中島氏は、『敦煌』の読書会よりずっと以前から、「与格」について考えていたようである。
与格的生き方と縁起の法、器としての私については、まだ思い付きの段階なので、考えがまとまったときに、改めて書こうと思う。