忘れてはないけど、母だけでなく松子ばあちゃん(父方の祖母)が亡くなったのも69歳だった。
一人息子(父)が10歳のときに夫(祖父)が腹膜炎で亡くなって、
以来女手一つで息子を育てたの。
家業は映画館で時には旅回りの芝居もあげる。
当時はお茶子さんが二人いて、
家のことはお滝さん(曾祖母)がやっていたと思うの。
お滝さんはオカンの紐落としを楽しみにしていたけど、祝いを待たずに亡くなったそうだ。
松子ばあちゃんは映画館組合の付き合いもせねばならず、多忙だったのね。
戦時中にスパイ容疑で特高に呼ばれるという事件もあったと聞く。
容疑はすぐにはれたそうで、その経緯も聞いている。
組合の旅行にはオカンを連れて行った。
今思うと男ばかりの団体なのでオカンを連れたのは保身の為だったのかもね。
おばあちゃんと呼んではいても、まだ五十手前だったのよ。
オカンが小学3年のとき、脳梗塞で倒れたけど、
さほど不自由もなく回復して、
父が転勤族になったあとは一人で暮らしていた。
オカンが万博の年、父の転勤にはついていかず、
実家に戻って祖母と暮らした。
15歳にもなって祖母に頼り切りの四カ月だったな。
その年の暮に父が本厄で亡くなってから、また皆揃って暮らし始めた。
オカン達がまだ未成年の学生なので気を張ってたせいか、
軽い発作があって、徐々に不自由が増えた。
兄が結婚してようやく安堵したのか認知症が出始め、
三月ほど寝付いただけで亡くなった。
入れ替わるように甥っ子が生まれたのはその年の暮。
父の命日の前日だった。
その甥っ子はもう五十路に手が届く。
過ぎ去る年月の早いこと。
これらの話は前にもしたけど、思い出して話すことも供養とおもうの。
と、私も書いて行こうと思うちょります。
家族の記憶、書いておこうね。
自分のためにね。
紐落とし…調べたら七五三にあたる山陰地方
の行事だそうですね。
家族の歴史…折に触れて語ることが亡き人
への供養になることも納得です。
子供の着物に付いてる紐を取る節目の数えの四歳でお祝いするようです。
供養といえばヒデリンの掲示板。
主亡き後も続いていて、まさに供養と思います。
あれ?ヒデリンに叱られるかも。
参加してるよってね!