みなさま、”変”と”乱”の違いどう思います?
大化の改新は「乙巳の変(いっしのへん)」これは中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を成敗、だから”変”をつかいます
「中先代の乱」鎌倉幕府末期北条時行(14代執権北条高時の遺児)が鎌倉幕府再興を願ってのクーデターなので”乱”です。
「承久の変」は後鳥羽上皇が北条義時を成敗せよとの「院宣(いんぜん)」をだされたので”変”を使うのが
正しいと習った記憶があります。ですから昭和の2.26事件は”クーデターですので乱”となります。
関係ありませんがちなみに2.26はMy WifeのBirth Dayです。
さて「1221年の承久の変」ですが1ケ月で幕府方の勝利となり、後鳥羽、土御門、順徳の3上皇は流罪となります。
”変”以前の淡路、阿波、土佐の守護は佐々木経高(近江宇多源氏)でしたが、”変”後幕府方の東山道大将軍として功績を挙げた
小笠原長清 (信濃 守護 家 小笠原氏)が恩賞として阿波の守護に任ぜられることとなりました。
そして阿波を治め四国に睨みをきかせるため、阿波池田の上野台地に城(館とおもう)を築くこととなります。
石垣工法は安土桃山時代からですので現存する池田城の石垣は江戸時代のものです。池田の街並みガイドの皆様も
この点はお話されていると思います。
阿波池田が戦略的に重要な地点であると見極めたのは、司馬遼太郎さんによると長宗我部元親だと言われていますが
それより300年以上前に小笠原長清が気付いていたことになります。
余談ですが、ご存じの通り
戦いに反対だった土御門帝は土佐に配流後阿波にこられ現在の土成の御所のたらいうどんで知られる御所の地名は
土御門帝にちなんだものです。
「承久の変」は阿波一国および阿波池田にも影響をおよぼしていたんですね、のちの三好長慶は小笠原長清の子孫です。
日本史はおもしろい!!!