■このブログが繋がらなかったので、その間に書いてみた『ディクスン・カー妄論』。
★もう十分に書いたでしょうに。
■もともとカーの『三つの棺』と「密室講義」について書くために始めたブログだったから、役目は終わったよ。
某作家先生にもネタを提供していたかもしれないしさ。
★なんですか、それ。
〇第一章が肝心
■誰のどんな小説でも第一章は肝心だろうけれど、それはカーの作品でも同じ。
★これから、「こういう話が始まりますよ」という著者からの案内ですかね。
■毎度、入れ替わり出てくるカーの分身のような主人公は、いわば案内人。
カーがずるいのは、その案内人を無自覚で著者の共犯者に仕立てていることなんだ。
★無自覚、というところがミソですね。
■当たり前だけど、自覚していたら明白なアンフェアだからさ。例でいえば、『三つの棺』の第1章。この章の記述者は誰か。
★ランポール……、あれ、表記されていませんね。
■でも、事件関係者の誰かのはずだろう。何のための1章なのか、そして1章が書かれたタイミングが不思議なんだ。
★事件解決後じゃないですか。
■もし、そうだとすると、この数行(A)は完全にアンフェアになる。1章が、このように書かれるためには、
少なくとも第二の事件直後からフェル博士の解決が行われる前までに書かれねばならない。
(A 「すなわち、二件の殺人が」から「雪には足跡も残っていなかった」(ハヤカワミステリ文庫『三つの棺』P9)
★ずいぶんきわどい時に書かれているんですね。
■しかし、そのあとのページで「のちに……手記にもとずいてここに記しておく」と書かれている(同書P10)。
これはこの記録が事件解決後に書かれたものと読めるのだが。
★Aの箇所とともに、そこは強力に読者をミスリードへ誘いますね。
■Aを読んだ読者は、『三つの棺』は「こういう事件」であり、しかも第1章はフェル博士の手記をもとに
「事件後に」書かれている、と思い込んでしまう。
★矛盾していることを見逃しますね、これは。
■ひどいペテンだと思うんだがなあ。その誘導を非難されたら、カーは「1章を書いた誰かの主観的な文章」だと言いわけするんだろう。
少なくとも著者カーによる地の文ではない、と。
★もし地の文だったら、これは非難轟々。
■2章からランポールが三人称で登場するので、1章はおそらくランポールがボイド・マンガンから聞いた話をもとに書いた、と思われる。
このミスリード手法は『死時計』にも似たような部分があり、『三つの棺』以降の30年代中から40年代中ごろまで使われるんだ。
まあ、カーの弁護をするならば、カーという人は推敲をあまりしなかった人じゃないか。
一気に書いてしまうので、勢いのままに書いた部分が残ってしまった、と好意的に思いたい。
★アバタもエクボですなあ。それで、そのインチキ……いや、視点トリックでいちばん有名なのは『殺人者と恐喝者』でしょう。
■その第一章はフェイン夫人の視点だと思うんだがねえ。
★『テニスコートの謎』『幽霊屋敷』『貴婦人として死す』は一人称を使ってクリスティの超有名作に挑戦した、と思える作風です。
■『皇帝の嗅ぎ煙草いれ』『五つの箱の死』も視点を限定することをプロットにしている。
とくに『五つの箱の死』は視点プロットの極北じゃないか。
★『パンチとジュディ』も、ケン・ブレイクの視点がプロットの要でした。
※この帯の惹句もミスリードに加担している
★もう十分に書いたでしょうに。
■もともとカーの『三つの棺』と「密室講義」について書くために始めたブログだったから、役目は終わったよ。
某作家先生にもネタを提供していたかもしれないしさ。
★なんですか、それ。
〇第一章が肝心
■誰のどんな小説でも第一章は肝心だろうけれど、それはカーの作品でも同じ。
★これから、「こういう話が始まりますよ」という著者からの案内ですかね。
■毎度、入れ替わり出てくるカーの分身のような主人公は、いわば案内人。
カーがずるいのは、その案内人を無自覚で著者の共犯者に仕立てていることなんだ。
★無自覚、というところがミソですね。
■当たり前だけど、自覚していたら明白なアンフェアだからさ。例でいえば、『三つの棺』の第1章。この章の記述者は誰か。
★ランポール……、あれ、表記されていませんね。
■でも、事件関係者の誰かのはずだろう。何のための1章なのか、そして1章が書かれたタイミングが不思議なんだ。
★事件解決後じゃないですか。
■もし、そうだとすると、この数行(A)は完全にアンフェアになる。1章が、このように書かれるためには、
少なくとも第二の事件直後からフェル博士の解決が行われる前までに書かれねばならない。
(A 「すなわち、二件の殺人が」から「雪には足跡も残っていなかった」(ハヤカワミステリ文庫『三つの棺』P9)
★ずいぶんきわどい時に書かれているんですね。
■しかし、そのあとのページで「のちに……手記にもとずいてここに記しておく」と書かれている(同書P10)。
これはこの記録が事件解決後に書かれたものと読めるのだが。
★Aの箇所とともに、そこは強力に読者をミスリードへ誘いますね。
■Aを読んだ読者は、『三つの棺』は「こういう事件」であり、しかも第1章はフェル博士の手記をもとに
「事件後に」書かれている、と思い込んでしまう。
★矛盾していることを見逃しますね、これは。
■ひどいペテンだと思うんだがなあ。その誘導を非難されたら、カーは「1章を書いた誰かの主観的な文章」だと言いわけするんだろう。
少なくとも著者カーによる地の文ではない、と。
★もし地の文だったら、これは非難轟々。
■2章からランポールが三人称で登場するので、1章はおそらくランポールがボイド・マンガンから聞いた話をもとに書いた、と思われる。
このミスリード手法は『死時計』にも似たような部分があり、『三つの棺』以降の30年代中から40年代中ごろまで使われるんだ。
まあ、カーの弁護をするならば、カーという人は推敲をあまりしなかった人じゃないか。
一気に書いてしまうので、勢いのままに書いた部分が残ってしまった、と好意的に思いたい。
★アバタもエクボですなあ。それで、そのインチキ……いや、視点トリックでいちばん有名なのは『殺人者と恐喝者』でしょう。
■その第一章はフェイン夫人の視点だと思うんだがねえ。
★『テニスコートの謎』『幽霊屋敷』『貴婦人として死す』は一人称を使ってクリスティの超有名作に挑戦した、と思える作風です。
■『皇帝の嗅ぎ煙草いれ』『五つの箱の死』も視点を限定することをプロットにしている。
とくに『五つの箱の死』は視点プロットの極北じゃないか。
★『パンチとジュディ』も、ケン・ブレイクの視点がプロットの要でした。
※この帯の惹句もミスリードに加担している
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