①中国を抑えるための日本の戦略 :231107の1情報
遡ること約20年…。急速に経済が発展し「世界の工場」と呼ばれるまでになった中国。その後も、「アメリカを追い抜き、21世紀は中国の時代になる」、メディア、経済系シンクタンクなどあらゆるところでそう言われました。
しかし、2005年に「中国の経済成長は2020年くらいまで」と予測し、正確に的中させた人物がいます。当ブログに再三登場していただいている伊勢雅臣氏は、『日本の地政学』を著した北野幸伯氏をそのように評しながら、「中国を抑えるための日本の戦略」について考察しています。
歴史的事象を踏まえての考察と解説です。伊勢氏の許可を得て掲載いたします。
★地政学で対中戦略を考える ~ 北野幸伯『日本の地政学』を読む
地政学的に見れば、21世紀初頭の日中関係は20世紀初頭の英独関係にそっくり。台頭するドイツを英国はいかに抑えたのか?
■1.20世紀の英独関係は、21世紀の日中関係
北野幸伯氏の『日本の地政学』がとにかく面白い。今回は、その中でも特に地政学を応用して、21世紀に台頭しつつある中国を20世紀のドイツの台頭になぞらえて、対中戦略を論じている部分をご紹介しましょう。
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ドイツは1903年、欧州最強になっていました。ドイツはそれ以前、比較的平和な態度をとり、力を蓄えてきた。ところが、「俺たちは欧州最強になった!」と認識した後、アグレッシブになっていきました。「東洋のドイツ」である中国も、同じような行動をとっています。[北野、p74]
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20世紀初頭に欧州最強になったドイツを倒したのは、軍事的経済的には劣勢となっていたイギリスでした。英国はフランス、ロシア、アメリカ、日本を味方につけてドイツを打倒しています。
地政学的に見れば、ユーラシア大陸西側の大陸国ドイツと島国イギリスは、東側の中国、日本に相当します。とすれば、台頭する中国を軍事的経済的に劣勢な日本が抑えようとすれば、イギリスのように周辺国との同盟によって対中包囲網を築く、という大戦略が描けます。
北野氏の著書は、この大戦略を、具体的な政治経済状況で肉付けしていくのですが、その内容は同書を直接読んでいただくこととして、本稿ではその導入として、20世紀の英独関係が21世紀の日中関係に相当するという地政学的な見方をご紹介していきましょう。
それ自体、20世紀前半の地球史を明快に描く優れた歴史観だからです。
■2.ランドパワーとシーパワー
地政学の父と呼ばれているイギリス人地理学者ハルフォード・マッキンダー。彼の世界観では、ユーラシア大陸の中心部「ハート(心臓)ランド」がロシアであり、それを半月弧で囲むのが「リム(周縁)ランド」の欧州、中東、インド、中国。
さらにその外周の海に浮かぶ半月弧がイギリス、オーストラリア、日本、アメリカ、カナダです。
このうち、ハートランドは陸軍中心のランドパワーであり、外周の半月弧は海に囲まれて海軍中心のシーパワーとなります。その間のリムランドはランドパワーにもなれば、シーパワーにもなる「両生類国家」です。
外周の半月弧は、リムランドとは海で分断されているだけに、ハートランドやリムランドから攻撃されにくく、攻撃もしにくい、という特徴があります。これを「水の抑止力」と言います。
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そのこと(JOG注:水の抑止力)を知っていたイギリスは、もっともパワーが強かった時でも、「欧州全土を征服しよう」といった野望は持ちませんでした。イギリスは、軍事力、技術力で圧倒的に差がある欧州以外の国々を攻め、どんどん植民地にしていった。しかし、すぐ近くにある欧州を支配しようとは考えなかったのです。[北野、p38]
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イギリスは対リムランド防衛のために、欧州のバランス・オブ・パワーを維持する戦略をとりました。欧州内で一国が強くなりすぎると、他国を支援して対抗させたのです。こうしてイギリスは「七つの海を支配する大英帝国」を築いたのですが、それはこうした地政学的に正しい戦略を持っていたからでした。
■3.イギリスにシーパワーで挑戦したドイツ
欧州をバランス・オブ・パワーでコントロールするというイギリスの戦略を時代遅れにしたのが、ドイツの勃興です。19世紀末のドイツは産業革命において、イギリスに追いつき追い越しつつありました。当時の最先端産業であった化学分野ではドイツの優位は決定的となっており、また軍備に不可欠の鉄鋼産業もドイツの優位は確立されつつありました。
その原動力として、ドイツの大学は科学、工学などの研究でイギリスの大学よりも進んでおり、一方、イギリスの経営者は科学技術に無知だったのです。
しかし、1890年まで首相を務めたビスマルクは、ドイツ統一を成し遂げて、こうした躍進をもたらしたものの、それ以上の拡張主義は内政と外交のトラブルを増やすだけと考えていました。そこで巨大な力を蓄えながらも、イギリスには挑戦しなかったのです。
ビスマルクを信任していたヴィルヘルム1世が亡くなってから、転機が訪れます。後を継いだ孫のヴィルヘルム2世は1890年にビスマルクを解任します。10年ほどはビスマルク路線を継承しましたが、植民地再分配を狙ってイギリスを凌駕する海軍力を目指します。
リムランド国家としてランドパワーを誇っていたドイツが、両生類らしく、シーパワーも目指し始めたのです。
■4.ドイツの野望を打ち砕いたイギリスの「外交革命」
ドイツの海軍力増強を脅威に感じたイギリスは巧みな外交によって、ドイツ包囲網を築きます。まず1904年には、それまで最大の仮想敵としていたフランスと和解し、「英仏協商」を結びました。ロシアとは日露戦争後の1907年に「英露協商」を実現しています。
一方、イギリスは1902年に日本と日英同盟を結んでいます。これは対ロシアを目的としており、日露戦争の日本勝利に大いに貢献したのですが、対ドイツの意味合いもあったようです。確かに、その後、第一次大戦で日本が地中海艦隊を派遣したり、中国大陸や太平洋諸島からドイツ勢力を一掃したことを考えれば、対ドイツという戦略もあったのでしょう。
さらに、元植民地アメリカとは独立戦争で8年半も戦って以来、あまり良い関係ではありませんでしたが、1898年の米西戦争でアメリカ側についてから友好的な関係に入りました。これら一連の外交により、イギリスはフランス、ロシア、アメリカ、日本によるドイツ包囲網を築くことに成功したのです。
その後の第一次大戦は、まさしくドイツとその周辺国 対 イギリスが構築した包囲網の戦いになりました。イギリスのシーパワーに挑戦して植民地帝国を作ろうとしたドイツの野望は、イギリスの巧みな外交戦略によって打ち砕かれたのです。
(午後に続く)
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