【2012年3月17日 追記】
土岐氏を知らずして光秀謀反の動機はわからない!
これが私の歴史捜査の結論とも言えます。本能寺の変の研究本で土岐氏について言及したものはこれまでにありません。だから、427年間も本能寺の変の謎が解けなかったのです。
光秀は謀反の成功を祈願して愛宕神社に連歌(れんが)を奉納しました。愛宕百韻(あたごひゃくいん)と呼ばれるものです。その発句で光秀は次の句を詠みました。
時は今 あめが下なる 五月かな
この句は土岐氏が直面する苦境からの救済を祈願した句です。通説となっている「下しる」ではありません。
>>> 愛宕百韻の歴史捜査
そこで、土岐氏についてご理解していただきたいのですが、土岐氏についての情報が極めて少ないのです。歴史学的に注目されてこなかった、というか無視されてきたといった方がよいかもしれません。
ようやく見つけた土岐氏についての情報源をご紹介します。数奇な運命をたどって歴史の表舞台から消えていった土岐氏という氏族に思いをはせていただければと思います。光秀謀反の理由も見えてくるのでは。
★Wikipediaの「土岐氏」記事
大変要領よく的確に書かれていると思います。
ただし、土岐氏の家紋が水色と書かれていることには異議があります。軍記物が「水色桔梗」と書いたので家紋が水色と誤解されて広まったのです。「水色の地に白または黒の桔梗紋」が正しい家紋です。
★美濃源氏フォーラムのホームページ
岐阜県瑞浪(みずなみ)市に事務局を置く土岐氏の研究団体のホームページです。土岐氏の公式ホームページともいえるものです。土岐氏についての情報をいろいろ研究して発信しています。
岐阜という地名は織田信長が命名したようにいわれていますが、信長以前から岐阜という地名があり、それは土岐氏にちなんで命名されたということをご存知でしょうか。そんなことも地道に掘り起こしています。
土岐一族百家といわれる諸家の名字の一覧も掲載されています。落語家の桂三枝さんは土岐一族だそうです。あなたもひょっとすると土岐一族かもしれません!
● 画面左の「土岐氏略系図」を選択すると系図のページへ
● 系図のページの下の「その他資料」から一族名と地名のページへ
★美濃・土岐一族 谷口研語著 新人物往来社刊
土岐氏を知るにはこの本を読まねば、という土岐氏研究第一人者の本です。残念ながら売り切れており、中古本市場で高値が付いています。出版社へ増刷要求をお送りください。
この本から土岐氏の説明を要約したものを「土岐氏とは何だ!」のページに書きましたので、ご覧ください。
★土岐一族のつどい
現代の土岐一族の集まりです。
>>>あなたも土岐氏では?
>>>第18回土岐一族の集い(本能寺の変余談)
なお、2011年4月からfacebookに美濃源氏土岐一族グループを開設して土岐一族の情報交流を始めました。「自分も土岐一族かも?」と思われる方、土岐一族に関心のある方はお気軽にご参加ください。
【お知らせ】
本ブログは『本能寺の変 431年目の真実』著者のブログです。通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。
★ このブログの説明のページ
★ このブログの目次(サイトマップ)
**************************
>>> 「本能寺の変 431年目の真実」読者書評
>>> 「本能寺の変の真実」決定版出版のお知らせ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』プロローグ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』目次
>>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
土岐氏を知らずして光秀謀反の動機はわからない!
これが私の歴史捜査の結論とも言えます。本能寺の変の研究本で土岐氏について言及したものはこれまでにありません。だから、427年間も本能寺の変の謎が解けなかったのです。
光秀は謀反の成功を祈願して愛宕神社に連歌(れんが)を奉納しました。愛宕百韻(あたごひゃくいん)と呼ばれるものです。その発句で光秀は次の句を詠みました。
時は今 あめが下なる 五月かな
この句は土岐氏が直面する苦境からの救済を祈願した句です。通説となっている「下しる」ではありません。
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そこで、土岐氏についてご理解していただきたいのですが、土岐氏についての情報が極めて少ないのです。歴史学的に注目されてこなかった、というか無視されてきたといった方がよいかもしれません。
ようやく見つけた土岐氏についての情報源をご紹介します。数奇な運命をたどって歴史の表舞台から消えていった土岐氏という氏族に思いをはせていただければと思います。光秀謀反の理由も見えてくるのでは。
★Wikipediaの「土岐氏」記事
大変要領よく的確に書かれていると思います。
ただし、土岐氏の家紋が水色と書かれていることには異議があります。軍記物が「水色桔梗」と書いたので家紋が水色と誤解されて広まったのです。「水色の地に白または黒の桔梗紋」が正しい家紋です。
★美濃源氏フォーラムのホームページ
岐阜県瑞浪(みずなみ)市に事務局を置く土岐氏の研究団体のホームページです。土岐氏の公式ホームページともいえるものです。土岐氏についての情報をいろいろ研究して発信しています。
岐阜という地名は織田信長が命名したようにいわれていますが、信長以前から岐阜という地名があり、それは土岐氏にちなんで命名されたということをご存知でしょうか。そんなことも地道に掘り起こしています。
土岐一族百家といわれる諸家の名字の一覧も掲載されています。落語家の桂三枝さんは土岐一族だそうです。あなたもひょっとすると土岐一族かもしれません!
● 画面左の「土岐氏略系図」を選択すると系図のページへ
● 系図のページの下の「その他資料」から一族名と地名のページへ
★美濃・土岐一族 谷口研語著 新人物往来社刊
土岐氏を知るにはこの本を読まねば、という土岐氏研究第一人者の本です。残念ながら売り切れており、中古本市場で高値が付いています。出版社へ増刷要求をお送りください。
この本から土岐氏の説明を要約したものを「土岐氏とは何だ!」のページに書きましたので、ご覧ください。
★土岐一族のつどい
現代の土岐一族の集まりです。
>>>あなたも土岐氏では?
>>>第18回土岐一族の集い(本能寺の変余談)
なお、2011年4月からfacebookに美濃源氏土岐一族グループを開設して土岐一族の情報交流を始めました。「自分も土岐一族かも?」と思われる方、土岐一族に関心のある方はお気軽にご参加ください。
【お知らせ】
本ブログは『本能寺の変 431年目の真実』著者のブログです。通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。
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【文庫】 本能寺の変 431年目の真実 | |
明智 憲三郎 | |
文芸社 |
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>>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
京都に住んで居る事も有り、土岐の末裔と言われている宇津(都)氏との関係が気に成りました。
あの織田信長でさえ、天皇の朱印状を送り付けても、御料所返還に応じなかったとされ、光秀を大将とした軍に、城を明渡し姿を消した?又は、討たれ?とか言われて不明な様ですが。
(現代的に考えを変えると、マスコミの取材から、同じ土岐として身内でない様に偽装するために、あえて光秀に滅ぼされた?様な記録や話を作り出したかもしれません・・・。)
明智さんが、言われる様に、光秀が細川藤孝の足軽で京都育ちであれば、祖先は、宇津氏を頼って京都へ行ったかも?
また、その一族や幕府衆の丹波国人達とも顔が利いたので!光秀が丹波平定の大将に選ばれた理由かも?とか考えました。
奥深い山奥の周山に、光秀像が伝わって来た理由も何と無く理解できそうですが、明智さんからみた、宇津氏と光秀の関係は如何ですか?
「土岐一流一原氏本伝」という由緒書に宇都氏は土岐頼遠の流れと書かれているが、この本伝は『太平記』をもとに後世に創作されたものと推測され、宇都氏が土岐一族かどうかは未詳とのことです。
ということで、現時点では情報不足であり、いろいろ考えてみても憶測の域を出ないことになると思います。
ただし、ひとつの可能性としては残しておきたいと思います。
宇都氏については奥野高広著『皇室御経済史の研究』に詳しく書かれているようですので、調べてみたいと思います。
東大史料編纂所所蔵の『明智氏一族宮城家相伝系図書』をご存じでしょうか。
と言いますのも、この資料は文字通り明智家の系図と言うことになりますが、中に私の一族が土岐明智の氏流である旨の記載がございます。
信頼して良い資料であるのかを含め、ご存知の事柄がございましたら、お聞かせ願えませんでしょうか。
よろしくお願い申し上げます。
明智家の系図として何通りかが伝わっておりますが、いずれも慎重な評価が必要とされています。
というのも、織田家のように信長以降も明治に至るまで脈々と大名として家系を保った家はきちんと家系図を残せましたが、明智家はご存知のように正統に家を継げませんでした。
したがって、ある時代のある人物が自分の必要に応じて過去の家系図も使いつつ最新の家系図を作る、という極めて意図的な系図作成が行われました。これは大なり小なり、どこの家系でも同じではありますが。
ということで、家系図の全面を信じることはできませんし、部分的に正統であることを否定することもできないというのが現実です。
個々の系図について論じるのは学術的にも確立したものがあるわけではなく、いろいろ論争があり、専門家でも難しい問題です。
明智系図についてはわかる範囲で本ブログでいずれ解説を書いてみたいと思います。
回答いただきありがとうございます。
是非、明智氏の系図に関する考察をお聞かせください。楽しみにしております。
著書についても、非常に面白く読ませていただきました。ありがとうございました。
はじめまして ! 今、3分の1ぐらい、「本能寺の変 四二七年目の真実」を拝読させていただきましたが、これは、本当に素晴らしい本です。R.Sファンには、申し訳ないのですが、嘘やデタラメ記事の散見されるR.S氏とは、えらい違いです。まさに、綿密な事実と史実だけを頼りとした、R.S氏の対局に位置する誰もが信頼と納得できる内容です。こんな本に巡り合えたことに、心より感謝をしています! こういう本は、日本全体の知性や学問力を高めるので ひとりでも多くの人に読んでもらわなければいけません。ここで、まさに福沢の言葉を引き合いにしたいと思います。「信と思われる世界に偽詐多く、疑と思われる世界に真理多し」本当に有難うございます!
僕は神戸に住む高校生です。
昨年、明智憲三郎さんの「本能寺の変 四二七年目の真実」を拝読させていただきました。これは、本当に素晴らしい本で、感動しました。そして、いままでの研究がいかにでたらめなものであるかがよくわかりました。
そこで、ひとつ質問です。
貴殿は、「本能寺の変 四二七年目の真実」の中で、「東海への移封による土岐桔梗一揆の崩壊が、光秀をして本能寺での信長殺しを行わしめた」と書いておられます。確かに、丹波衆や旧幕臣衆の離反は、光秀にとって痛手であったとは思いますが、東海は土岐氏の故郷美濃にも近く、それほど「困ったコト」には思えないのです。
それに、「国替え」の時も、家臣というのは主君について行くものであり、譜代の家臣が少なかった光秀でも、すでに帰るところもない幕臣衆などは、東海に移る覚悟を決めたことでしょう。
以上が僕の素朴な疑問です。
ぶしつけな質問で申し訳ありませんが、お時間が許せば、お答えいただきたいと思います。
大名の移封が本格化し定着していくのは秀吉の時代からです。信長はその先駆けであり、大名たちにとっては先例のない重大事と受け止められたでしょう。現に『信長公記』には関東へ移封する滝川一益に信長がかなり気を使っていることが書かれています。
ただし、そのことが最終原因とみるか、唐入り(中国大陸侵攻)阻止が最終原因とみるか、その蓋然性の評価・検討の余地はあるとみています。
秀吉が唐入りを表明した際に国内が動揺し、有力武将が謀反を起こすに違いないという噂が立ったとフロイスが『日本史』に書いている事実をみると、「最終的に唐入りまで引きずられていく」ことを阻止する目的意識があり、それに先行する長宗我部攻めと徳川領移封という差し迫った危機に直面していたための謀反(しかも信長を討って謀反を成功させられる千載一遇の機会が訪れた)というのが蓋然性の高い答とみています。
拙著執筆時はフロイスのこの記述を入手していなかったため唐入り阻止に蓋然性ありの確信が不十分で、そこまで明確に書きませんでしたが、現時点では以上のようにみています。その時点で書いたら多分「子孫の手前味噌」で「光秀平和主義者説」とでも批判されたことでしょう。
非常に明解で高度な探求の成果にて、一つの結論的答えを導きご呈示されたものと思います。そして、その手法は
従来の通説、定説となる怨恨説、野望説など、それらが
依拠した諸史料の史実真相への捏造であったことの暴露、
同時により正当なる史料により、かの光秀の内にある動機
的な内容の全てを表示弁証しながら、謀叛プロセスのカラクリ転換(信長の家康殺しの逆利用)と、光秀以下家臣系土岐一族の信長支配による深刻なまでの没落的危機意識の
呈示等により、きわめて蓋然性の高い思い込み理論を展開
ストーリー化されていると推察いたします。
けれども、やはり、ご貴殿のお説も、一つの仮説であろうと
言うほかありません。
<信長の家康暗殺の計>の確たる証拠史料があるか、
どうか、蓋然性を高めた単なる仮定でしかないのでは、、
<土岐一族の結束=桔梗一揆>について、光秀の出世時代にそのような強い結束があったかどうかも、定かでないのではないか、これも単なる仮定であり、思い込みの理論的
立脚としているに過ぎないのではないか。
色々ご批判いたしまして申し訳ありませんでした。、、、
本能寺の変の可解、不可解、ご子孫なるご貴殿の立場からの解明、非常に貴重で価値あるものであったと思います。
この歴史事件についての理解的視野がより一層深まり、広くなりました。 ありがとうございました。