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「美人囲碁インストラクター」 押田華奈

2014年01月17日 00時08分57秒 | 雑学知識
 私の趣味のひとつに囲碁がある。そのおかげでこんな話を知ることができた。

 「美人囲碁インストラクター」 亡き夫は開成で伝説の天才だった

 NEWSポストセブン  取材・文/田中宏季
 http://www.news-postseven.com/archives/20140105_233774.html

 人生、「定石」通りに事が運ばないことは往々にしてあるが、囲碁が結んだこの2人の運命もまた、
打つ手、打つ手が効果なし。
ことごとく定石が通じない日々に、募る悲しみの深さは如何ばかりだったのか――。
その胸中を推し量ることはできない。

 ダイヤモンド囲碁サロン(東京・千代田区)でインストラクターを務める押田華奈さん(32)は、
昨年10月に最愛の夫を病で亡くした。

 長尾健太郎さん、享年31歳。病名は聞き慣れない「胞巣状軟部肉腫」。
いわば筋肉にできる珍しい癌で、1000万人に1.5~3人の確率でしか発症しない難病だった。
押田さんが振り返る。

「彼は15歳のときから発病していて、私と付き合い始めた頃にはすでに足に大きな手術の傷跡がありました。ただ、詳しい病名は聞きませんでしたし、彼も至って元気だったのでさほど心配もしていませんでした」

 2人が出会ったのは今から13年前。アマチュア日本一が主催する若手の囲碁研究会だった。

 当時、長尾さんは私立男子校の御三家、「開成高校」に通う3年生。
中学から高校にかけて出場した数学オリンピックでは、連続して銀メダル1つ、金メダル3つという
史上初の快挙を成し遂げ、「開成始まって以来の天才」とまで言われていた。

 一方の押田さんは慶応大学1年生。
2人を繋いだのは、ともに幼いころから習い始めた趣味の“碁縁”だった。

「子供のころから碁でできた友達は、なぜか気を許して長く続く関係の人が多かったんです。
彼も学業は優秀だったみたいですが、そんなところに惹かれたのではなく、
決して偉ぶらずに謙虚で優しい性格だったので……」

 と少し照れながら話す押田さん。その後、長尾さんは現役で東京大学に合格。
数学の研鑽を積んだ後、京都大学大学院に進学するも、2人の交際は遠距離恋愛で大事に育んでいった。
押田さんもまた、大学卒業後は囲碁の世界で身を固め、NHK囲碁講座や囲碁将棋チャンネルの司会に
抜擢されるなど、華々しい人生をスタートさせた。

 しかし、お互い自立した生活を送り「結婚」の二文字も意識し出したこの頃から、
長尾さんの壮絶な闘病生活が始まったという。

「結婚するなら彼が京大の博士号を取ってからと心に決めていたんです。
でも、25歳を過ぎてから彼の病気は肺に転移するなど進行が早まりました。
そのとき、初めて正式な病名も聞きました。
急いでネットで調べても症例が少なく治療法が確立していない。
転移がある場合は“予後不良”としか書いてありませんでした。難しい病気なんだなと……」

 両親の反対もあり、さすがに結婚を躊躇したとも打ち明ける押田さん。
しかし、最終的には自分の意志を貫き、2009年5月、晴れて「長尾華奈」になった。
なぜ、結婚を決意したのかと問うと、押田さんはしばらく考えた末にこう答えた。

「彼との付き合いは長く掛け替えのない存在ですし、もし私が病気で彼が元気でも、
きっと結婚してくれるだろうなと。
私の背中を押したのは、常に相手の立場でものを考える囲碁的な発想だったのかもしれませんね」

 結婚後、長尾さんは妻を連れてイギリスのオックスフォード大学に留学。
帰国後は名古屋大学多元数理科学研究科の助教として、数学者への道を一歩ずつ着実に歩んでいく。
2010年には待望の子供も授かり、家族3人で力強く生きていこうと改めて誓ったのも束の間。
すでに病魔は長尾さんの体中を蝕んでいたという。

「イギリス滞在中に脳に転移し、それからは心臓や目にまで……。
有効と思われる治療法はなんでも試し、数えきれないくらい手術もしたのですが、
昨年の6月以降は状況が悪くなる一方でした。
海外出張に出掛ける成田空港で意識を失ったり、言葉がうまく出せなくなったり。
それでも彼は弱音を吐かず、子供の成長を生きる希望にしていました」

 2013年9月、長尾さんはイギリス時代の研究成果が認められ、
日本数学会から名誉ある「建部賢弘賞」を受賞する。
だが、愛媛県で行われた受賞式が3歳の息子に見せた「かっこいい父親」の最後の雄姿となった――。

「息子はずっと『大きくなったらお医者さんになって、パパの病気を治すんだ』と話していましたが、
彼が亡くなってからは一切口に出さなくなりました。最近はよく数字を数えているんです。
それも間違えながら400、500まで。やはり父親の血ですね」

 そう言うと、それまで努めて明るく取材に応じていた押田さんの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「これから先、囲碁の仕事をどこまで続けていくか何も考えられない状態です。
でも、私が彼と出会ったのも碁の縁ですし、子供にもいずれ碁を教えたいです。
そして、碁を通じて彼のように謙虚で、相手の立場でものを考えられる大人に育って欲しいと思います」