使ってみたい「武士の日本語」 野火 迅(のび じん)著 草思社 2007年
あとがき―――やせ我慢と品格
戦国乱世から泰平の世に移るとともに、武士の信条は「腹が減っては軍(いくさ)はできぬ」から
「武士は食わねど高楊枝」へと移り変わった。
戦国乱世にあって軍(いくさ)に明け暮れた武士たちは、食うことの大切さを、
いやというほど体で(胃で)味わったはずだ。
遠征は、兵站(へいたん)がじゅうぶんに整っていなければ成り立たないし、
籠城戦は、兵糧が尽きればおのずと敗北が決する。―――
軍(いくさ)と出世と治世が一体になっていた戦国乱世においては、「腹が減っては軍はできぬ」は、
たんなる生物的欲求の次元を超えた「武士の理念」であったということができる。
ところが、戦国乱世の総決算である関ヶ原の戦いに決着がついて江戸に徳川幕府が
開かれてからというもの、軍(いくさ)は、武士の本分ではなくなった。
江戸時代とは、一口にいえば、徳川幕府の強大な軍事力と抜かりのない諸国大名への
監視体制によって築かれた泰平の世である。
その世においては、軍(いくさ)は、むしろあってはならないものだった。
その時勢に応じて、主君への忠誠が下克上に取って代わり、剣は実戦の武器から
心身修養の道具になり、鎧をまとって戦場に馳せる武士の仕事は、肩衣(かたぎぬ)を着けて
城へ出仕(出勤)することに変わった。
そこで生まれたのが、「腹が減っては軍(いくさ)はできぬ」の実践論に対する
「武士は食わねど高楊枝」の精神論である。
この言葉は、ありていにいえば、「武士のやせ我慢」を表したものだ。
内職なしには家計を支えられない五十石取りの「平侍(ひらざむらい)」も、
港湾の重労働で日銭を稼ぐ「裏店(うらだな)住まい」の浪人者も、武士は武士。
たとえ今日の米や酒代に窮することがあっても、彼らは、武士の気位を保ちつづけることができた。
実際には、藩財政逼迫(ひっぱく)のあおりを食って薄給を減給された平侍などは、
すっかりしょぼくれて武士の風格と精彩を失い、
大名取り潰しによって生み出された食い詰め浪人の多くは、堕落して博徒の用心棒や盗賊と化した。
だがそれでも武士の誇りは、彼らの心の拠り所でありつづけたのだ。
立身出世によってしか自分の価値を測れなかった戦国武士とは、えらい違いである。
江戸時代の武士は、「武事をおこなわずして武士とはこれいかに」といいたくなる
奇妙な存在なのだが、逆にいえば、もはや港湾労働者やヤクザの用心棒でしかない浪人にまで、
「食わねど高楊枝」の気位をほどこした「武士」というコンセプトの強さは驚嘆に値する。
徳川幕府が念入りにつくりあげた「武士道」のたまものであろう。
ちょっとむずかしげな理屈を並べてしまったが、ここで筆者が注目したいのは、
ひとえに「武士のやせ我慢」である。
「やせ我慢」は、「品格」と紙一重だ。いや、ほとんど同義とさえいえる。
金に困っているときにも困っていないようにいい、怒っているときにも冷静なように見せかけ、
何かへの欲に駆られているときにも無欲恬淡(てんたん)のようにふるまい、
明らかに自分の損になるとわかっていることを名誉(意地)に懸けておこなう。―――
それらはすべて、「やせ我慢」という本体が形のうえで「品格」になって現れたものだ。
思うに、本書で紹介した「武士の日本語」の多くは、
やせ我慢を素にした品格によってつくられている。
たとえば、当座の金がないことを表す「手元不如意(ふにょい)」は、いかにも品格のある言葉だが、
生活全般の苦しさにあえいでいることを隠すという意味で、やせ我慢が素になっている。
また、「これはしたり」というクールな一言は、
「何をいうか!」と叫び立てたい怒りを抑えたところから出てくる。
さらには、「武士の一分」などは、利にも欲得にもかかわらない武士の対面を表している点で、
「武士のやせ我慢」を象徴する言葉であるといえよう。
ところで、筆者の目的は、武士の品格の正体がやせ我慢であることを暴(あば)き、
「つまるところ、武士も、本質的には現代人と同じだった」などと総括することにはない。
人が自分自身を律する方法は、しょせん、やせ我慢しかないのだ。
それがなかなかできないから、現代人は、しばしば品格のない言動を人前にさらすことになる。
そこへいくと、やせ我慢がしっかりとできた江戸時代の武士とは、
なんと成熟した人々であったことか。―――筆者はそういいたいのである。
あとがき―――やせ我慢と品格
戦国乱世から泰平の世に移るとともに、武士の信条は「腹が減っては軍(いくさ)はできぬ」から
「武士は食わねど高楊枝」へと移り変わった。
戦国乱世にあって軍(いくさ)に明け暮れた武士たちは、食うことの大切さを、
いやというほど体で(胃で)味わったはずだ。
遠征は、兵站(へいたん)がじゅうぶんに整っていなければ成り立たないし、
籠城戦は、兵糧が尽きればおのずと敗北が決する。―――
軍(いくさ)と出世と治世が一体になっていた戦国乱世においては、「腹が減っては軍はできぬ」は、
たんなる生物的欲求の次元を超えた「武士の理念」であったということができる。
ところが、戦国乱世の総決算である関ヶ原の戦いに決着がついて江戸に徳川幕府が
開かれてからというもの、軍(いくさ)は、武士の本分ではなくなった。
江戸時代とは、一口にいえば、徳川幕府の強大な軍事力と抜かりのない諸国大名への
監視体制によって築かれた泰平の世である。
その世においては、軍(いくさ)は、むしろあってはならないものだった。
その時勢に応じて、主君への忠誠が下克上に取って代わり、剣は実戦の武器から
心身修養の道具になり、鎧をまとって戦場に馳せる武士の仕事は、肩衣(かたぎぬ)を着けて
城へ出仕(出勤)することに変わった。
そこで生まれたのが、「腹が減っては軍(いくさ)はできぬ」の実践論に対する
「武士は食わねど高楊枝」の精神論である。
この言葉は、ありていにいえば、「武士のやせ我慢」を表したものだ。
内職なしには家計を支えられない五十石取りの「平侍(ひらざむらい)」も、
港湾の重労働で日銭を稼ぐ「裏店(うらだな)住まい」の浪人者も、武士は武士。
たとえ今日の米や酒代に窮することがあっても、彼らは、武士の気位を保ちつづけることができた。
実際には、藩財政逼迫(ひっぱく)のあおりを食って薄給を減給された平侍などは、
すっかりしょぼくれて武士の風格と精彩を失い、
大名取り潰しによって生み出された食い詰め浪人の多くは、堕落して博徒の用心棒や盗賊と化した。
だがそれでも武士の誇りは、彼らの心の拠り所でありつづけたのだ。
立身出世によってしか自分の価値を測れなかった戦国武士とは、えらい違いである。
江戸時代の武士は、「武事をおこなわずして武士とはこれいかに」といいたくなる
奇妙な存在なのだが、逆にいえば、もはや港湾労働者やヤクザの用心棒でしかない浪人にまで、
「食わねど高楊枝」の気位をほどこした「武士」というコンセプトの強さは驚嘆に値する。
徳川幕府が念入りにつくりあげた「武士道」のたまものであろう。
ちょっとむずかしげな理屈を並べてしまったが、ここで筆者が注目したいのは、
ひとえに「武士のやせ我慢」である。
「やせ我慢」は、「品格」と紙一重だ。いや、ほとんど同義とさえいえる。
金に困っているときにも困っていないようにいい、怒っているときにも冷静なように見せかけ、
何かへの欲に駆られているときにも無欲恬淡(てんたん)のようにふるまい、
明らかに自分の損になるとわかっていることを名誉(意地)に懸けておこなう。―――
それらはすべて、「やせ我慢」という本体が形のうえで「品格」になって現れたものだ。
思うに、本書で紹介した「武士の日本語」の多くは、
やせ我慢を素にした品格によってつくられている。
たとえば、当座の金がないことを表す「手元不如意(ふにょい)」は、いかにも品格のある言葉だが、
生活全般の苦しさにあえいでいることを隠すという意味で、やせ我慢が素になっている。
また、「これはしたり」というクールな一言は、
「何をいうか!」と叫び立てたい怒りを抑えたところから出てくる。
さらには、「武士の一分」などは、利にも欲得にもかかわらない武士の対面を表している点で、
「武士のやせ我慢」を象徴する言葉であるといえよう。
ところで、筆者の目的は、武士の品格の正体がやせ我慢であることを暴(あば)き、
「つまるところ、武士も、本質的には現代人と同じだった」などと総括することにはない。
人が自分自身を律する方法は、しょせん、やせ我慢しかないのだ。
それがなかなかできないから、現代人は、しばしば品格のない言動を人前にさらすことになる。
そこへいくと、やせ我慢がしっかりとできた江戸時代の武士とは、
なんと成熟した人々であったことか。―――筆者はそういいたいのである。