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「仰臥漫録―解説」その2 嵐山 光三郎

2014年10月02日 01時09分16秒 | 雑学知識
 「仰臥漫録(ぎょうがまんろく)」 正岡子規 著  角川ソフィア文庫 平成21年

 「仰臥漫録―解説」その2 嵐山 光三郎

 子規がこの日記を書いていることを知った虚子が「ホトトギス」の「消息」欄に、「行く行くは本誌に掲載の栄を得べく候。」と書いたところ、子規から「仰臥漫録はすこしも情をためず何も彼もしるしつつあるなり」と強く叱責された。雑誌に発表されるとなれば、思ったことを書けなくなる。
 それでも、子規没後に「ホトトギス」(明治38年1月1日号)の「附録」として掲載されてしまった。(絵と家族に対する言及の部分は削除された)
 原本は、土佐の俳人から贈られた土佐半紙に書かれた二冊本で、この文庫本の四冊分の大きさである。
『墨汁一滴』や『病牀六尺』は口述で、弟子や妹の律が代筆したものが多いが、『仰臥漫録』は自筆である。ただし、第一冊の10月9日の記載のみが虚子代筆となっている。
 岩波書店版の複製本を見ると、10月9日の十二行分(本書では十行)だけが虚子の太めの筆跡となっており、(右九日分虚子記)と記されている。この日は宮本医師がやってきて、包帯をはずして背中や尻の様子を診察したから、虚子に代筆を依頼したと推察される。そこに子規の油断があったというべきか。代筆しながら、虚子は「いつの日か『ホトトギス』に発表しようと考えたはずである。
 10月9日の項の後半に、子規は自筆で「この日宮本医師来診・・・・・(云々)」と書き加えている。
 翌10月10日には寒川鼠骨(そこつ)のことが書いてある。鼠骨は子規と同じく愛媛県出身で新聞「日本」の子規担当記者だった。子規より八歳若い。晩年は子規庵に住み、戦災後はその復興につとめたが、のち厄介な問題をおこす。子規は鼠骨を気に入って、
「余の内へ来る人にて病気の介抱は鼠骨一番上手なり。鼠骨と話し居れば不快のときも遂にうかされて一つ笑うようになること常なり・・・・・(云々)」
と書いている。