民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「己が心と相対(あいたい)する」 中野 孝次

2014年12月06日 00時01分47秒 | 古典
 「すらすら読める徒然草」 中野 孝次  講談社文庫 2013年(2004年刊行)

 (序段)つれづれなるままに、日ぐらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

 「己が心と相対(あいたい)する」 P-14

 有名な序の段だが、この「つれづれ」とは、為すこともなく退屈で、侘しく、さびしくてならない、というような意味ではない。むしろその反対で、身を閑(かん)の状態に置いて、心が外なる物事との交渉を止め、己れの内をのぞきこみ、完全に明確な意識をもって己れと相対(あいたい)している状態を言うのだ、とわたしは解する。それが最善の状態だというのだ。人はこの世に生きているかぎり、ふだんは外界(がいかい)との応接に忙しく、しずかに己が心の声を聴く状態にない。「世に従へば、心、外(ほか)の塵に奪はれてまどひやすく」(第75段)である。それが可能になるのは、自分一人になって、身を「まぎるるかたなく」醒めている閑(かん)の状態に置いて、日ごろは放っておく己れの心と相対したときだ。

 自分が自分と相対する。自分が、外界のことに気をとらわれることなく、自分の心と向かいあう。これは人がつねにやっていることのようでいて、しかし最も行うことの少ない行為だ。己れを省みればわかる。人は大抵日がな一日外部との応接に忙殺されて一日を了(お)えているのである。人が己れと相対するためには、何よりも身を閑暇(かんか)の中において、自分と語り合う時を持たねばならない。そして昔から自分というものにだけ生きようと決意した人は、他のすべてを犠牲にして、そのことに努めてきたのだ。

 中略

 そうやって己が心に正直に対していれば、その考えるところ、価値の置き方、物の判断の仕方が、世間並とまったくちがうようになるのは当然だ。世から見ればそれは狂おしいということにもなろう。だが、何とでも思うがいい。わたしはこの「私」の見るところを正しいとし、何と思われようとかまわず書きつけることにした、という直言がこの「序」なのだと思っている。
 
 「徒然草」はそんなふうに、折々の兼好の心に浮かんだ思いを記していった、文字どおりの随筆である。従って中味はいろんな内容のものが雑然と詰まっている。整然と秩序だてずにあるから面白いのであって、これをたとえば内容ごとにきちんと分類したりしたら「徒然草」の魅力は失せよう。

 後略