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「将棋」 その1 菊池寛

2014年12月18日 00時42分49秒 | エッセイ(模範)
 「将棋」 その1 菊池寛  所載「日本の名随筆 別巻8 将棋」 作品社  1991年

 将棋はとにかく愉快である。
 盤面の上で、この人生とは違つた別な生活と事業がやれるからである。
 一手一手が新しい創造である。
 冒険をやって見ようか、堅実にやって見ようかと、いろいろ自分の思い通りやって見られる。
 而(しか)も、その結果が直ちに盤面に現われる。
 その上、遊戯とは思われぬ位、ムキになれる。
 昔、インドに好戦の国があって、戦争ばかりしたがるので、侍臣が困って、王の気持を転換させるために発明したのが、将棋だと云うが、そんなウソの話が起る位、将棋は面白い。
 金の無い人が、その余生の道楽として、充分楽しめるほど面白いものだと思う。

 将棋の上達方法は、誰人(だれ)も聴きたいところであろうと思うが、結局盤数(ばんかず)を指すのが一番だと思う。
 殊(こと)に、自分より二枚位強い人に、二枚から指し、飛香(ひきょう)、飛、角、香と上って行くのが、一番たしかな上達方法だと思う。

 自分は二十五六のときには、初段に二十段位だった。
 つまり、初段に大駒二枚位だったと思う。
 その頃京都にいたが自分が行っていた床屋の主人が、将棋が強かったので、よくこの人と指した。
 最初は二枚落(おち)だったが、飛車落までに指し込んだ。
 それから東京へ来た。
 大正八年頃から、湯島天神下の会所へ通った。
 茲(こゝ)の主人は、館花浪路(たてはななみぢ)と云う老人で、井上八段の門下で、幸田露伴先生とは同門だった。時々幸田さんのところへお相手に行いていた。この老人は、会所を開くとき、所々の将棋会に出席して賞品の駒や将棋盤を沢山かせぎためて、それで会所を開いたと云うのだから、可なりの闘将だつたのだらう。
 この人に自分は、最初二枚を指した。
 二枚は局半(なかば)にして相手が、駒を投じた。
 其後(そのご)飛香落から平手(ひらて)までに指し進んだ。
 この会所に、三好さんと云う老人がいた。
 此(この)人は将棋家元大橋家の最後の人たる大橋宗金(そうきん)から、初段の免状を貰つていると云う珍らしい人だつた。
 よく将棋の古実などを話してくれた。
 ものやわらかいしかし皮肉な江戸つ子で、下手(したて)には殊に熱心に指してくれた。
 この人も飛香落から指して、平手に進んだ。
 この頃は、自分として、一番棋力(きりょく)の進んだときだと思う。
 この会所で、今の萩原六段と知り合いになった。
 大阪から来たばかりの青年で、まだ土居さんに入門しない前だつた。
 香落で指して、滅茶苦茶に負けた。
 恐らく飛角香位違っていた。

 とにかく、二枚位違う人に、だんだん指し進んで行くことは自分の棋力の進歩が見えて、非常に愉快なことである。
 しかしそう云う場合は、絶えず定跡(ぢやうせき)の研究が必要である。
 二枚落で指しているときは二枚落の定跡を、飛香落で指しているときは飛香落の定跡をと、定跡の研究を進めて行くべきである。

 将棋をうまくならうと思えば、定跡は常に必要である。
 殊に初段近きまたはそれ以上の上手と指す場合、定跡を知つていると云うことは、第一の条件である。 定跡を知らないで上手(うわて)と指すことは、下駄履きで、日本アルプスへ登るようなつまらない労力の浪費である。
 例へば、二枚落を指す場合、六五歩と下手が角道(かくみち)を通すか通さないかは、山崎合戦で、天王山を占領するか否か位の大事な手である。
 自分など下手と二枚落を指し、下手が五六歩と突いて来ないと、こりや楽だと安心するのである。
 語を換えて云えば、六五歩と角道を通す手を知らないで上手と二枚落を指すことは、槍の鞘を払わないで突き合つているようなものである。

 飛香落にも、角落にも、飛落にも、ゼヒとも指さなければならない手があるのである。
 だから、こう云う手を知らないで、戦ったのでは勝てるわけはないのである。
 しかし、もし六五歩と云ったような二枚落の定跡のABCを知らずに、上手と指して勝てる場合があったら、それは上手がそれだけの力がないので、所謂手合違いの将棋である。
 そんな場合は角落の違い位しかないのである。
 語を換えて云えば、定跡を知らなかったら、上手に向って角一枚位は損である。
 定跡を知れば、飛角でも勝てるのが、定跡を知らなければ二枚でも勝てないのである。

 ゐた。→いた。 云ふ。→云う。 行つた。→行った。 登るやうな→登るような