民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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エッセイの会「そぞろあるき」の定例会

2019年07月07日 22時29分06秒 | 身辺雑記
7月5日(金)
エッセイの会「そぞろあるき」の定例会(合評会)
いつもは午前9時30分から始まるが、この日は講師の都合で9時から始まった。
場所は西生涯学習センター。
会員は17名(この日の欠席者は2人)
それぞれが提出したエッセイ原文と講師が添削した文がメールで送られてくる。
それを各自でコピーを取り持ち寄る。
タイトルのあいうえお順に、作者がエッセイを書いた時の心境(思い)を語り、
出席者の感想を話し合う。

今回、オレはエッセイの中で毒を吐いたので、けっこう非難を浴びた。
それも予想した人からではなく、意外な人から。
それが呼び水になって次から次に批判が飛び出した。
書いたときからある程度は覚悟していたから、そんなにあわてずに対応できたけれど、
やっぱり読み手にイヤな思いをさせてはまずいかと反省もさせられる。
でも、当たり障りのないエッセイを書く気にはならない。

文体には「敬体」と「常体」がある。
文の最後が「ですorます」で終わるのが「敬体」で、「だorである」で終わるのが「常体」。
会員の中にいつも「敬体」で書く人がいる。
オレは「敬体」はなんか気取っているようで好きではない。
会員のエッセイでなければ、文が「敬体」で終わっていたら、
もうそれだけで読むのを止めてしまうかもしれない。

そんなことを考えながらふと思った。
オレはエッセイを書くとき、第一人称(主語)を私、オレではなく、オイラを使っている。
もしかして「オイラ」を見ただけで読むのを止めてしまう人もいるかもしれない。
いや、相当数いるように思われる。
でも、所詮、万人に受け入れられるエッセイなんかあり得ないのではないか。

オレは反体制側の人間だから体制側の人間には読んでもらえないかもしれない。
こういうとき、絶対数の多い体制側にいると得するんだな。