民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「出来ます」 佐野 洋子

2013年12月07日 00時22分08秒 | エッセイ(模範)
 「神も仏もありませぬ」 エッセイ集  佐野 洋子 著 筑摩書房 2003年

 「出来ます」 P-137

 前略

 もうどうでもええや、今から男をたぶらかしたりする戦場に出てゆくわけでもない。世の中をはたから見るだけって、何と幸せで心安らかであることか。老年とは神が与え給う平安なのだ。あらゆる意味で現役でないなあと思うのは、淋しいだけではない。ふくふくと嬉しい事でもあるのだ。

 中略

 若さと老いの違いのほとんどは外見しかないのだ。だから男はハゲに対してあの様に過剰反応をして、とりつくろうのか、ハゲの方が絶倫という俗説があるのに。
 日本中死ぬまで現役、現役とマスゲームをやってる様な気がする。いきいき老後とか、はつらつ熟年とか印刷されているもの見ると私はむかつくんじゃ。
 こんな年になってさえ、何で、競争ラインに参加せにゃならん。わしら疲れているのよ。いや疲れている老人と、疲れを知らぬ老人に分けられているのだろうか。
 疲れている人は堂々と疲れたい。
 もう人類には長老の知恵というものはなくなった。長老はしわだらけであらねばならぬ。長老は一日にして成らぬのだ。長老は苦い人生を、少なくとも四十年はじっとかみしめて、噛みたばこみたいに苦い汁を吸いつづけねばならん。そしてその苦い汁が人生の知恵なのだ。
 私だって若い時老人をバカにしていた。年寄りのくせにとか、老人の知恵は時代遅れなのにとか。しかし人は皆、知っているのだ。長老を必要とする共同体が壊れちまっていることを。死ぬまで個人で戦いつづけねばならぬと、老いの体と心は邪魔なのよ。そして長生きしすぎて、一挙に敗残物となって、税金を喰いつぶすのだ。
 私は少なくとも、現役下りて、十五年くらいは老人を楽しみたいと思うのだが、どんな老人になったらいいのかわからないのである。


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