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「アフォリズムに就いて」 萩原 朔太郎

2015年05月21日 00時17分11秒 | 文章読本(作法)
 「アフォリズムに就いて」 P-6  萩原 朔太郎  昭和12年

 ・・・ところが日本にはまだ、エッセイという語の適切な訳語がないのである。或る人はエッセイを『小論文』と訳している。或いはもっと漠然と、単に評論一般をエッセイの名で呼んでる人々も居る。しかし火炎が得る迄もなく、元来エッセイと論文とは別物である。論文は理知の抽象的産物である、したがって非文学的のものであるが、エッセイは主観の体験や生活感情を主とした純文学的なものであり、且つその表現も芸術品としての高い洗練を尽くしている。(西洋ではエッセイが文章読本の手本にされている。)エッセイを論文と訳することは、如何に考えても間ちがいである。そこで或る人々は、エッセイを『随筆』と訳している。この方の訳語は、前の『小論文』などより遥かに優って適切である。たしかにエッセイは、日本の随筆と同じ種類の文学形態に属している。逆にまた日本の『徒然草』や『枕草子』のようなものは、西洋流の文学で言うエッセイに相当しているのである。

 しかし厳重に考えれば、エッセイは随筆ともまたちがうのである。日本の随筆というものは、花鳥風月の自然を書いたり、或いは日常生活の身辺雑記などを、茶話のような低い調子で書くのであるが、西洋のエッセイには、必ず本質になにかの哲学的、思想的の根拠があり、且つその書くことも人間生活の文化命題に広く亙(わた)っている。(今日の流行言葉で言えば、エッセイの命題は非日常の哲学にある。)したがってエッセイは、外見上から論文に似た様式を取るのであって、この点からすれば、却(かえ)って『小論文』の訳語の方が、一方の『随筆』にまさって居る。つまり前の訳語は、エッセイの形態のみを見て精神を見ないことの誤訳であり、後者の訳はその反対、即ち精神を見て形態を見ないことの誤訳である。

 「エッセー・随筆の本格的な書き方」所載 P-6 井上 俊夫 朝日カルチャーブックス 大阪書籍 1988年

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