「日没閉門」 エッセイ集 内田 百聞(ひゃくけん) 新潮社 1971年(昭和46年)
日没閉門 (原文は旧漢字)
近頃はいい工合(ぐあい)に玄関へ人が来なくなって難有(ありがた)い。
何年か前から、玄関わきの柱に書き出しておいた、蜀山人の歌とそのパロディー、
替へ歌の私の作である。
蜀山人
世の中に 人の来るこそ うるさけれ
とは云うものの お前ではなし
百鬼園
世の中に 人の来るこそ うれしけれ
とは云うものの お前ではなし
葉書大の紙片に墨で書いて柱に貼っておいたが、だれかしらないけれど何時(いつ)の間にか
引つぺがして、持って行ってしまふ。被害が頻頻(ひんぴん)とあるので、又書き直して紙の裏面にべつとりと糊を塗り、剥ぎ取れない様にしておいた。
しかし矢つ張りむしってしまふ。持って行く為でなく、そこにそんな事が書いてあるのが気に食はぬのだろうと云う見当がついた。
その歌の隣り、玄関の戸に楷書で面会謝絶の札(ふだ)をを貼りつけた。そこ迄やつて来た者に会はぬ為には、あらかじめ一筆ことわつておいた方がいい。
何年か前、まだ憚(はばか)りが水槽装置でなかった時、玄関前で何か言つてゐると思ったら、待ち兼ねたをわい屋であった。中中来ないのでもう一杯になってをり、家の者が横町へ行って見て、艦隊は未だ来たらぬかとうろうろしてゐた時である。
をわい屋は玄関前の白いみかげ石の上に起ちはだかり、大きな汲み取り用の杓を、弁慶が長刀を突つ立てた様に構へて、どなった。
「もし、もし、ここに面会謝絶と書いてあるが、汲んでもいいのですか」
これは恐れ入つた。面会謝絶の書き出しが彼れ氏の癇に触れたらしい。しかし悔い改めて爾後面会謝絶を引っ込めるわけには行かない。そこに現れる人はみんなをわい屋とは限らない。
外敵の侵入に備へるばかりではない。人の来るこそうれしけれ、の気持ちもあるが、これでもう机の前の仕事は一仕切りと思つたところへ、向こうの勝手で時切らずにやつて来られては堪らない。そこで門前に「日没閉門」と札を掛けた。有楽町の名札屋に註文し、瀬戸物に墨黒黒と焼き込んで貰った。
春夏秋冬 日没閉門
爾後は至急の事でない限り、お敲(たた)き下さるな。敲きや起きるけれどレコがない。ではなく、敲いても起きませぬぞ。春夏秋冬とことわつたのは、日の永い時、短い時、夕方六時頃であらうと、八時にならうと、暗くなつたら、もう入れませぬ。私がその札を掲げた後、旅行で熊本へ廻ったら、熊本城の城門に掲示が出てゐた。
日没閉門 熊本城
梅雨の時であつたので、上五を附ければ俳句になる。
白映や 日没閉門 熊本城
それが私の所では一つのトラブルを起こした。すでに閉門時を過ぎ、家のまはりもしんとして来た頃、門のあたりで何か物音がする。をかしなと思つたら、一人の若い男が門扉のわきの柱を攀ぢ登り、それを足場に玄関前に通じる前庭に飛び降りたのであつた。
胡散な奴、何者なるぞと誰何すれば、「お皿を下げに来ました」と云う。
その晩、九段の花柳地に近い出前の西洋料理屋へ註文して、一品料理を一つ二つ取り寄せた。そのお皿を取りに来たのである。
出前のお皿を下げに来ると云うのは当たり前の事であるが、食べ終わつたか終わらないかにもうやって来た例は、市ヶ谷合羽坂にゐた当時、時時註文した神楽坂の洋食屋である。馬鹿に早いなと思ふけれど、向こうの心配は、一晩ほつて置けば後はどうなるかわからない。お皿もよかつたが、特に銀器が立派だつたので、あの邊り花柳街が近いから、お勝手口などでどんな事になるかわからないと案じたのであらう。
門扉を乗り越えて侵入した若い者の店も、九段の花柳街に近い。早いとこお皿を下げておく必要があつたのかも知れない。
中略
日没閉門ならば即ち日出開門。家内が開けに行く。開ける前からすでにかつぎ屋が門の外に起つて待ってゐる。実におちおち寝てもゐられない。いや寝やしない起きてゐたのだが、かつぎ屋のお神さんは徹夜ではなく寝て来たのだろう。向こうの勝手で朝早くやつて来て、気に食はない。方方を旅行してゐた時、京都に近づく前の駅で、別の列車がつぎ屋専用の特別列車であつた。蝗(いなご)の大群の如くにひしめき合ってゐて、よそで見た目にも何となく憎らしかった。
うちへ来るかつぎ屋は千葉の在の百姓である。自分の畑の野菜物ばかりでなく、途中沿線の船橋の市場からいろんな物を仕入れて来る。ぼた餅羊羹お煎餅、それから魚介類、小魚などはしょつちゆう持ってゐる。
後略
日没閉門 (原文は旧漢字)
近頃はいい工合(ぐあい)に玄関へ人が来なくなって難有(ありがた)い。
何年か前から、玄関わきの柱に書き出しておいた、蜀山人の歌とそのパロディー、
替へ歌の私の作である。
蜀山人
世の中に 人の来るこそ うるさけれ
とは云うものの お前ではなし
百鬼園
世の中に 人の来るこそ うれしけれ
とは云うものの お前ではなし
葉書大の紙片に墨で書いて柱に貼っておいたが、だれかしらないけれど何時(いつ)の間にか
引つぺがして、持って行ってしまふ。被害が頻頻(ひんぴん)とあるので、又書き直して紙の裏面にべつとりと糊を塗り、剥ぎ取れない様にしておいた。
しかし矢つ張りむしってしまふ。持って行く為でなく、そこにそんな事が書いてあるのが気に食はぬのだろうと云う見当がついた。
その歌の隣り、玄関の戸に楷書で面会謝絶の札(ふだ)をを貼りつけた。そこ迄やつて来た者に会はぬ為には、あらかじめ一筆ことわつておいた方がいい。
何年か前、まだ憚(はばか)りが水槽装置でなかった時、玄関前で何か言つてゐると思ったら、待ち兼ねたをわい屋であった。中中来ないのでもう一杯になってをり、家の者が横町へ行って見て、艦隊は未だ来たらぬかとうろうろしてゐた時である。
をわい屋は玄関前の白いみかげ石の上に起ちはだかり、大きな汲み取り用の杓を、弁慶が長刀を突つ立てた様に構へて、どなった。
「もし、もし、ここに面会謝絶と書いてあるが、汲んでもいいのですか」
これは恐れ入つた。面会謝絶の書き出しが彼れ氏の癇に触れたらしい。しかし悔い改めて爾後面会謝絶を引っ込めるわけには行かない。そこに現れる人はみんなをわい屋とは限らない。
外敵の侵入に備へるばかりではない。人の来るこそうれしけれ、の気持ちもあるが、これでもう机の前の仕事は一仕切りと思つたところへ、向こうの勝手で時切らずにやつて来られては堪らない。そこで門前に「日没閉門」と札を掛けた。有楽町の名札屋に註文し、瀬戸物に墨黒黒と焼き込んで貰った。
春夏秋冬 日没閉門
爾後は至急の事でない限り、お敲(たた)き下さるな。敲きや起きるけれどレコがない。ではなく、敲いても起きませぬぞ。春夏秋冬とことわつたのは、日の永い時、短い時、夕方六時頃であらうと、八時にならうと、暗くなつたら、もう入れませぬ。私がその札を掲げた後、旅行で熊本へ廻ったら、熊本城の城門に掲示が出てゐた。
日没閉門 熊本城
梅雨の時であつたので、上五を附ければ俳句になる。
白映や 日没閉門 熊本城
それが私の所では一つのトラブルを起こした。すでに閉門時を過ぎ、家のまはりもしんとして来た頃、門のあたりで何か物音がする。をかしなと思つたら、一人の若い男が門扉のわきの柱を攀ぢ登り、それを足場に玄関前に通じる前庭に飛び降りたのであつた。
胡散な奴、何者なるぞと誰何すれば、「お皿を下げに来ました」と云う。
その晩、九段の花柳地に近い出前の西洋料理屋へ註文して、一品料理を一つ二つ取り寄せた。そのお皿を取りに来たのである。
出前のお皿を下げに来ると云うのは当たり前の事であるが、食べ終わつたか終わらないかにもうやって来た例は、市ヶ谷合羽坂にゐた当時、時時註文した神楽坂の洋食屋である。馬鹿に早いなと思ふけれど、向こうの心配は、一晩ほつて置けば後はどうなるかわからない。お皿もよかつたが、特に銀器が立派だつたので、あの邊り花柳街が近いから、お勝手口などでどんな事になるかわからないと案じたのであらう。
門扉を乗り越えて侵入した若い者の店も、九段の花柳街に近い。早いとこお皿を下げておく必要があつたのかも知れない。
中略
日没閉門ならば即ち日出開門。家内が開けに行く。開ける前からすでにかつぎ屋が門の外に起つて待ってゐる。実におちおち寝てもゐられない。いや寝やしない起きてゐたのだが、かつぎ屋のお神さんは徹夜ではなく寝て来たのだろう。向こうの勝手で朝早くやつて来て、気に食はない。方方を旅行してゐた時、京都に近づく前の駅で、別の列車がつぎ屋専用の特別列車であつた。蝗(いなご)の大群の如くにひしめき合ってゐて、よそで見た目にも何となく憎らしかった。
うちへ来るかつぎ屋は千葉の在の百姓である。自分の畑の野菜物ばかりでなく、途中沿線の船橋の市場からいろんな物を仕入れて来る。ぼた餅羊羹お煎餅、それから魚介類、小魚などはしょつちゆう持ってゐる。
後略