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「朗読のススメ」 永井 一郎

2014年03月05日 00時14分32秒 | 朗読・発声
 「朗読のススメ」  永井 一郎 著 「サザエさん」の波平役  新潮文庫 平成21年

 「ワタシ」と「ワタクシ」

 いま、あなたは、私のこの文章を読んでいらっしゃいます。
ところでこの一文を、声に出して読んでみてください。
「私のこの文章」の「私」をどう読みましたか。
ワタクシですか、ワタシですか。

 黙読ならば、「私」とは一人称単数であると頭で理解して通過することができます。
でも、声に出して読むときは、「私」の読み方を決めなければ先に進めません。
 文字を頭でしか理解していなかったからでしょう。
かつて文部省は、「私」という字はワタクシとしか読ませないと決めていました。

 ちょうどそのころ、私は、文部省の模範朗読の仕事にいきました。
「私」という字をワタシと読んだとき、ブザーが鳴りました。
「それ、ワタクシと読んでください」
「ワタクシだと気分が伝わらないと思いますが」
「あなたの感覚の問題ではありません。文部省は私という字はワタクシとしか読ませておりません」

 なんと説明しようが、蛙の面に小便(失礼)でした。
内容からして、作家はワタシと読むことを想定して書いているように、私には感じられました。
しかし、そうした感覚より指導方針の規定が大切というわけです。

 文部省が文部科学省になり、数年前から私を「ワタクシ」という読みで統一するということは
なくなったようです。
文部省に問い合わせたところ、
「ワタクシとしか読ませないとは指導しておりません」
係官はそう言いました。
「ワタクシとワタシと両方読みますね。どちらでもよいと教えています」

 長年の胸のつかえが取れました。
文字で見る「私」は「私」ですが、声に出すときにはワタクシかワタシです。
 声に出して読んで、納得したとき、言葉は体を通ったのです。
言葉を体で理解したのです。
これは、黙読による「頭での理解」とはまったくちがうものです。

 表現というものは、芝居も歌も演奏も舞踏も、そして文学や美術も、すべて決定です。
決定して、その是非を人々に問います。
したがって表現には社会的責任が生じます。
そこが、黙読と朗読の決定的なちがいです。
「ワタシ」か「ワタクシ」かの決定は内容と自分との対決です。
字の読みを「技術」に入れられない理由がそこにあります。

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