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「本居宣長」 時を待つ 吉田 悦之

2016年04月14日 00時11分35秒 | 古典
 「日本人のこころの言葉 本居宣長」 吉田 悦之(本居宣長記念館館長) 創元社 2015年

 「時を待つ」 P-138

 たとい五百年千年の後にもあれ、時至りて、上にこれを用い行い給(たま)いて、天下にしきほどこし給わん世をまつべし。これ宣長が志(こころざ)し也。 (『うい山ぶみ』)

 たとえそれが五百年、千年後であったとしても、時が到来し、上に立つ者がこれを採用して世の中に広めてくださる時を待つべきです。これが私の考えです。 (現代語訳)

 ケヤキは三百年先を見越して植えるそうですが、その年月をどのくらいの長さに感じるかは、文化や時代、人、また職業でもずいぶん違います。
 引用文は、学者の本分は物事を解明し、その結論を人に教えたり、書物に書き記すことであり、決して無理に広めようとしたり、ましてや今を変革しようとしてはならない、という発言の最後の部分です。
 ここで注目したいのは、五百年、千年後に期待するという実に長いスパンの思考です。この宣長の言は決して当てずっぽうの数字ではなく、リアリティがあるのです。

 考えてもみてください。712年成立の『古事記』は宣長が再発見するまでに千年以上の年月を要し。また『源氏物語』は1008年成立説を採るなら、750年ほどかかっています。宣長はそんな長い時間軸の中で学問しているのです。
 ここにはまた、「無理をするな、なんとかなる」と信じる楽観主義者の宣長がいます。
 未来を信じる心、これこそが古典を読むことで鍛えられた目であり、精神なのです。

 (作者 注意書き)原文は原則として新字体・現代かなづかいに改め、読みやすくするために、適宜、ふりがなや句読点をつけるとともに、かなを漢字にするなどの調整をしました。和歌・俳句は、旧かなづかいのままとし、ふりがな、濁点をつけました。



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