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「本居宣長」 学ぶことが生きること 吉田 悦之

2016年04月16日 00時07分13秒 | 古典
 「日本人のこころの言葉 本居宣長」 吉田 悦之(本居宣長記念館館長) 創元社 2015年

 「学ぶことが生きること」 P-140

 物まなびの力。 (『家のむかし物語』)

 主体的な学問のお蔭。 (現代語訳)

 「物まなび」の物は「広く言うときに添える言葉」であると宣長は言っています。そこには漠然とした広がりが感じられますし、「物の怪(け)」とか「物語」という例を見ると、どうも「もの」には不思議な力が宿っている気すらします。
 この「物まなび(学び)」は、普通は「学問」と訳します。(中略)

 突飛なことをいうようですが、宣長は「物学びの化身」だったのかも知れません。
 奈良朝期に始まった日本の学問(物学び)が、長い年月を経ていく中で、百年を経た器物が「付喪神(つくもがみ)」という精霊になるように、あるときとうとう人の形を借りて「物学びの化身」としてこの世に姿を現した、それが宣長だった。そんな思いに駆られることがあります。

 本当に「物学び」は、宣長の人生そのものになっていたようです。「おのが物まなびの有りよう」という学問遍歴を書いた文章だけで、生涯の最も大切なことが語り尽くせる人なのです。
 (中略)
 宣長にとって「物学び」とは、抱いた疑問を解決しながら、志を実現していくことです。倦まず弛まず長い時間をかけて納得いくまで続けることです。学ぶことが生きることなのです。そこには、意志の勝利というか主体的な力強さが感じられます。
 裏返すと宣長の学問は、たとえば天下国家や世のため人のためのものではないということです。どこまでも自分のためにする学問です。
 (後略)

 (作者 注意書き)原文は原則として新字体・現代かなづかいに改め、読みやすくするために、適宜、ふりがなや句読点をつけるとともに、かなを漢字にするなどの調整をしました。和歌・俳句は、旧かなづかいのままとし、ふりがな、濁点をつけました。



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