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「文章読本」 谷崎潤一郎 その2

2016年02月16日 00時04分52秒 | 文章読本(作法)
 「文章読本」 谷崎潤一郎 中公文庫 1975年(昭和50年)初版 

 1、文章とは何か

 ○言語と文章 (その1)

 人間が心に思うことを他人に伝え、知らしめるのには、いろいろな方法があります。たとえば悲しみを訴えるのには、かなしい顔つきをしても伝えられる。物が食いたい時は手真似で食う様子をして見せても分る。その外、泣くとか、呻るとか、叫ぶとか、睨むとか、嘆息するとか、殴るとかいう手段もありまして、急な、激しい感情を一息につたえるのには、そういう原始的な方法の方が適する場合もありますが、しかしやや細かい思想を明瞭に伝えようとすれば、言語に依るより外はありません。言語がないとどんなに不自由かということは、日本語の通じない外国へ旅行してみると分ります。

 なおまた、言語は他人を相手にする時ばかりでなく、ひとりで物を考える時にも必要であります。われわれは頭の中で「これをこうして」とか「あれをああして」とかいう風に独りごとを言い、自分で自分に言い聴かせながら考える。そうしないと、自分の思っていることがはっきりせず、纏まりがつきにくい。皆さんが算術や幾何の問題をかんがえるのにも、必ず頭の中で言語を使う。われわれはまた、孤独を紛らすために自分で自分に話しかける習慣があります。強いて物を考えようとしないでも、独りでぽつねんとしている時、自分の中にあるもう一人の自分が、ふと囁きかけて来ることがあります。それから、他人に話すのでもなく、自分の言おうとすることを一遍心で言ってみて、然る後口に出すこともあります。普通われわれが英語を話す時は、まず日本語で思い浮かべ、それを頭の中で英語に訳してからしゃべりますが、母国語で話す時でも、むずかしい事柄を述べるのには、しばしばそういう風にする必要を感じます。されば言語は思想を伝達する機関であると同時に、思想に一つの形態を与える、纏まりをつける、という働きを持っております。

 (その2に続く)

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