民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「場面を心に描きながら語り継ぐ」 小澤 俊夫

2014年02月18日 01時16分15秒 | 民話(語り)について
 働くお父さんの「昔話入門」生きることの真実を語る 小澤 俊夫  日本経済新聞社 2002年

 「場面を心に描きながら語り継ぐ」

 昔話を理論的に考えるときに、わざと意識して合理的に分析してみるとよくわかるんです、
おかしさが。
ああ、ここのところが違うじゃないかという感じになります。
昔話は、けっしてその場しのぎで片づけるんじゃなくて、
とても一貫した法則を持って語っているのです。

 これがもし仏像のように目に見えるものであれば、
ああ、壊れているってすぐわかったと思うのです。
だけど、昔話は目に見えないから、だれも壊れていることに気がつかない。
本来どうあるべきかも知らないわけです。
どんどん壊して平気だというふうになってしまうのではないかと心配なのです。

 語り手も場面を想像しながら語り、子供たちはその声を聞いて、
それぞれに場面を思い描くわけだから、少しずつ語り手によって違っていいんです。
また語り手が語っているのと、具体的には子供が想像するのは違うかもしれない。

 だけど、絶対にできなきゃいけないのは、語り手が語るときには、
その場面を同時に頭のなかで見ながら語るということです。
これは動かしがたいことです。
語り手が思い描きながら語っているんじゃないと、聞いている方には見えないのです。
語り手が心に見ながら語っているからこそ、聞いている方も自分なりの画面がつくれる。
これはストーリーテリングをやっている人たちは、確実に常にいうことです。

 テレビのアニメなどでは、物語の場面はすべて作られていて、見ている子供は、
それを受け取りさえすればいい。
聞いている自分で動かすんじゃなく、語られる画面は勝手に動いてくれる。
私は、そこのところ、ちょっと気をつけなきゃいけないと思っているのです。
これでは、子供の空想力は育たない。
空想力、想像力というのが衰えたら、すごく人間にとっては危険なことだと思います。

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