民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「佐渡の民話」  浜口 一夫

2012年09月28日 00時38分09秒 | 民話(語り)について
 「佐渡の民話」第1集 浜口 一夫編(佐渡在住) はしがき 昭和34年4月

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 ですから、この本におさめられた民話は、けっして民族的資料として、話者のはなしをそのまま忠実に
書いたものではなく、あくまで、文学的な読み物として、わたしなりの再話を試みたものなのです。
 さて、つぎは、その再話についてですが、再話にあたっては、わたしは、まず、話者の語り口と、
話の筋を尊重しながら、いったんそれを、わたしのからだにとかしこみ、わたしのからだをろ過して、
わたし自身が新たな語り手となって書いてみました。
しかし、それは、なにもわたし自身のかってな自由と創作を意味するものではありません。

 たとえば、同じ話でも、数人の話者から聞いたものを比較しますと、それぞれの話者によって、
話が簡潔であったり、きめがこまかかったり、筋の展開がたくみであったり、素朴で新鮮な民話特有の
美しい形容詞が、ちりばめられていたり、それぞれの長所をもっています。
 そのような場合、わたしは、関 敬吾著「日本昔話集成」や、日本放送協会編「日本昔話名彙」を座右において、いちおう比較検討しながら、それらの話の筋のいちばんおもしろいもの、
ことばの豊かで美しいものをえらびながら、再話を試みてみました。
 つまり、ことばをかえていえば、話者とわたしが、一体となり協同して、原話にみがきをかけ、
それを仕上げる仕事を、わたしは試みたわけです。
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 なお、再話にあたって、わたしのもっとも迷った点は、情景描写についてです。
 多く昔話の語り手たちは、ほとんど具象的な情景描写はなさないようです。
 それは、話者と聞き手がおなじ土地に住んでおり、なにも具象的な自然描写や風土の説明が必要ないからでしょう。
 だから、情景描写の必要な場面にいくと、この村の四十二曲がりのようなさびしい峠だとか、堂の滝の
ふちのようなところとかいって、しごくかんたんなことばでかたずけて、つぎへ進んでいきます。
 ところが、その土地の自然や風土を知らない、読者には、それだけでは、とても話者たちの語る風土や
自然は理解できないのではないかと思うのです。
 そこで、わたしは、再話にあたっては、話者の語らなかった自然や風土の具体的な描写を、
昔話のスタイルをふまえることに注意しながら、手短かに行ってみました。
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 そのほか、再話としておかしてはならぬ点、再話の限界を越えて、再創造に近いもの、あまりに文学的すぎるもの等、このささやかな、わたしの再話集の中には、再話の方法論上からみて、多くのいきすぎや、あやまちや、問題点が、数多くひそんでいるのではないかと不安です。
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