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「ゾウの時間ネズミの時間」 本川 達雄 

2015年10月04日 00時02分37秒 | 雑学知識
 「ゾウの時間ネズミの時間」 サイズの生物学  本川 達雄  中公新書 1992年

 あとがき

 動物が変われば時間も変わるということを知ったときは、新鮮なショックを感じたものだ。時間は唯一絶対不変のものだと、あたまから信じ込んできたのだから。時間がいろいろあると聞いて、なにか一つ賢くなったような気がした。
 このときは、動物学を勉強しはじめて10年以上たっていたので、別の意味でのショックも大きかった。時間が違うということは、世界観がまったく異なるということである。「相手の世界観をまったく理解せずに動物と接してきた。こんな態度でやった今までのぼくの研究はどんな意味があったのか?」と呆然とした。それと同時に、こんな大事なことを教えてくれなかった今までの教育に、怒りを感じた。本書は怒りを「てこ」にして、自分自身への反省をこめて書いたものである。
 このショックを機に、動物の世界観について考えるようになった。おのおのの動物は、それぞれに違った世界観、価値観、論理をもっているはずだ。たとえその動物の脳味噌の中にそんな世界観がなくても、動物の生活のしかたやつくりの中に、世界観がしみついているに違いない。それを解読し、ああ、この動物はこういう生活に適応するためにこんな体のつくりをもち、こんな行動をするのだなと、その動物の世界観を読みとってやり、人間に納得のいくように説明する、それが動物学者の仕事だと思うようになった。そう思い定めてやったのが、終章で紹介した棘皮動物のデザインの仕事である。
 近ごろ、外国との摩擦のニュースを聞くにつけ、違う世界観を理解することのむずかしさがよく分かる。同じ人類の間でそうなのだから、違う動物の世界観を理解することなど、よほどの努力をはらわなければできないことである。しかし、その努力をしなければ、決して人間はさまざまな動物を理解し、彼らを尊敬できるようにはならない。
 サイズを考えるということは、ヒトというものを相対化して眺める効果がある。私たちの常識の多くは、ヒトという動物がたまたまこんなサイズだったから、そうなっているのである。その常識を何にでもあてはめて解釈してきたのが、今までの科学であり哲学であった。哲学は人間の頭の中だけを覗いているし、物理や化学は人間の目を通しての自然の解釈なのだから、人間を相対化することはできない。生物学により、はじめてヒトという生き物を相対化して、ヒトの自然の中での位置を知ることができる。今までの物理学中心の科学は、結局、人間が自然を摂取し、勝手に納得していたものではなかったか?

 以下略

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