民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「自分の頭を食った蛇」 稲田 和子 

2012年12月20日 00時24分32秒 | 民話(昔話)
「自分の頭を食った蛇」 「笑いころげた昔」より 稲田 和子  講談社 S、49年

 昔、大阪に鴻池(こうのいけ)という 大分限者(ぶげんしゃ)があって、
そこには まことに 話好きなおばあさんがおられたそうな。

 そんなの隣の彦八というのが、また話し上手な男だったそうでして、
おばあさんはこの男の姿を見る度ごとに、
「彦八、話してくれや。彦八、話さいの」と せがんでおる。

 彦八は、
「話は話すけえども、わしの話に一々、あんたが、「そりゃあ嘘だ、嘘だ」って おっしゃっては、
話してみたところで面白うもない。
あれを止めてつかあはんすりゃあ、話しますだ」と こう言うので、おばあさんは、
「いや、それは言わんつもりだけえども、ここに千両箱をおいといて、もしもその言葉を言うたなら、
千両を皆きり お前にやってもええ」と約束した。

 そういうことなら話しましょうと、彦八は話しはじめた。
「昔、くちなわっていう蛇が、冬になると、餅(ばぼ)石というものを持って穴ごもりをしとったが、
冬が長(なご)うて、ばぼ石は食べてないようになってしもうた。
穴の口から覗いてみても 雪がたんと溜まっておって 出るわけにいかん。
いつもの年なら、ばぼ石が無(の)うなるころは雪が消えるものだが、その年に限って雪は消えん。
腹が減るし、仕方がないけん、首をくりっと回して、自分の尻尾(しっぽ)の端をチョキッと食った。

 それから また 翌(あ)くる日、穴から覗いてみたって雪がまだまだある。
腹が減って、仕方がないけん、また、くりっと回して、自分の尻尾(しっぽ)をチョキッと食った。
 その翌(あ)けの日も、まんだ雪が沢山ある。
仕方がないけん、首をくりっと回っては食いして、とうとう 首だけになったそうでござんす」

「はあ、そういうことだったか。えらい短いくちなわになったなあ」
「くちなわの頭は「おらが体もいよいよ淋しいことになったもんだ」ちゅうて嘆いとったけど、
なんと奥さん、わが頭まで「スポーン」と食ってしまったそうでござんすわい」

 と話したから、おばあさんは呆れかやった。
「なんと彦八、そりゃあ嘘ではないかや」
「はい、ありがとうござんす」
 彦八は千両箱をかついで、とっとと去(い)んだそうでございます。
 それ、昔こっぽり。 (鳥取県倉吉市 立光 一美)

 くちなわ  朽ちた縄 の意味で 蛇のこと

「つうのモノローグ」 その2 「夕鶴」 木下 順二

2012年12月18日 00時10分35秒 | 名文(規範)
 「夕鶴」 木下 順二
 つうのモノローグ その2

 これなんだわ。・・・・・
おかね・・・・・
おかね・・・・・

あたしは ただ 美しい布を見てもらいたくて・・・・・
それを見て 喜んでくれるのが嬉しくて・・・・・

ただ それだけのために 身を細らせて織ってあげたのに、もういまは・・・・・
ほかに あんたをひきとめる手だてはなくなってしまった。・・・・・

布を織って おかねを・・・・・
そうしなければ・・・・・
そうしなければ あんたは もう あたしのそばにいてくれないのね?・・・・・

でも・・・・・
でも いいわ、おかねを・・・・・

おかねの数がふえていくのを そんなに あんたがよろこぶのなら・・・・・
そんなに 都へ行きたいのなら・・・・・

そして、そうさしてあげさえすれば あんたが離れて行かないのなら・・・・・
もう一度、もう一枚だけ あの布を織ってあげるわ。

それで、それで ゆるしてね。
だって、もう それを越したら あたしは死んでしまうかもしれないもの。・・・・・

その布をもって、あんた、都へいっておいで。・・・・・
そして たくさん おかねをもって お帰り。・・・・・
帰るのよ、帰ってくるのよ、きっと、きっと 帰ってくるのよ。

そして 今度こそ 私と二人きりで、
いつまでも いつまでも いっしょに暮らすのよ、ね。ね。・・・・・

「役割語の謎」 金水 敏(さとし)

2012年12月16日 00時18分42秒 | 日本語について
 「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」 金水 敏(さとし)著  岩波書店 2003年

 問題 次の1~8とア~クを結びつけなさい。

1、そうよ、あたしが知ってるわ
2、そうじゃ、わしが知っておる
3、そや、わてが知っとるでえ
4、そうじゃ、拙者が存じておる
5、そうですわよ、わたくしが存じておりますわ
6、そうあるよ、わたしが知ってあるよ
7、そうだよ、ぼくが知ってるのさ
8、んだ、おら知ってるだ

ア、お武家様
イ、(ニセ)中国人
ウ、老博士
エ、女の子
オ、田舎者
カ、男の子
キ、お嬢様
ク、関西人

 どうです、簡単でしたか?
この問題は、日本で育った日本語の母語話者なら、ほぼ100%間違えることがないはずです。

 この問題に出てくるような、特定のキャラクターと結びついた、特徴ある言葉使いのことを、本書では「役割語」と呼び、<お嬢様ことば><田舎ことば>のように、カッコにくくって示すことにします。

 日本で育った日本語話者なら、問題に示したような役割語は誰でも身につけていると想像されます。
よく考えると、これはとても不思議なことです。とても謎めいている、といってもよいでしょう。
なぜなら、役割語は必ずしも現実の日本語とは一致しない、というより、全然違っている場合が多いのです。たとえばあなたは、「そうじゃ、わしが博士じゃ」という博士に会ったことがありますか?
「ごめん遊ばせ、よろしくってよ」としゃべるお嬢様に会ったことがありますか?
そんなものは今の日本には存在しませんね。

 それにもかかわらず、みんな知ってる役割語。
いったい、私たちはどこでどのようにして役割語を身につけるのでしょうか?
そもそも、何のために、役割語が存在するのでしょうか?
そして役割語は、誰が、いつ、作ったのでしょうか?

「尻なり しゃもじ」 笠原 政雄

2012年12月14日 00時14分40秒 | 民話(昔話)
 「尻なり しゃもじ」 笠原 政雄 「日本の民話 5 甲信越」

 むかしね、正月の二日にさ、仕事するのは 初仕事っていってね、一番先に夢見るのは 初夢という。
それが 一年中で一番、仕事にしろ、夢にしろ、正夢なんだと。

 そして ある人がね、今年こそは いい夢みたいと思って 寝たと。
そしたら「垣根のところにしゃもじが一本」という夢見たと。しゃもじ、あの ご飯 盛るね。
おっかしな夢見たなと思って、それでもと思って 朝起きてから 垣根のとこ行ってみたら、
しゃもじが 一本 あったと。

 なんだ、このしゃもじと思って、こう 手に持って、こう ほっぺたを ぺろっとなぜてみた。
そしたら 急に ほっぺたが、
「オタビトタビト、オタビトタビト」って、鳴り出した。
「ああ、これはおおごとだ」と、思って、ほっぺたを押さえて、しばらく押さえていたども、なおらんて。弱ったなあと思って、裏返しにして ぺろっとなぜたら ぴたんと止まった。

 また 表のほうで ぺろっとなぜたら、
「オタビトタビト、オタビトタビト」と、鳴るんだと。
「ああ、こりゃ、いいものをさずかった」と、思ってたと。

 そしてこう考えてたと。
「そうだ、村のあの一番身上(しんしょう)のいい長者のうちへ行こう」
と、思って、門構えがかたくて うちの中へ入ることはできないと。
便所のくみとり口のとこから 入りこんだと、泥棒のように。

 そして 上に出ようとしたら、ガタンガタンと 便所にだれか来た。
これはたいへんだというんで 便所のすみっこへ 小さくなっていた。
そして、その 入ってきたのはお嬢さんだって。そして用を足しにきた。一人娘だ。
「あっ、これはいいもんが入ってきた」と、思って、そのしゃもじを出して、
お嬢さんのけつをぺろっとなぜた。

 そうしたところが、お嬢さんのけつが、
「オタビトタビト、オタビトタビト」って、鳴り出した。
さあ もう、お嬢さん青くなって 寝間へかけこんで もう病気になったというんで うなってるんだと。
さあ どこの医者呼ばってきてあれしても、「オタビトタビト」というのは、なりが止まらないって。

 それで もう 仕方がないので、長者どんが 立て札をまえ出した。
「娘の病気をとめてくれるものがあったら、うちの婿にする」って、立て札をたてた。
まあ 何人くらいその、われこそは----って行くけど、祈祷師やなにから 行くけど、
けつが鳴り止まないんだって。
 
 そしたら、ある日、しゃもじを持ってる人が 占い師のように化けて、しゃもじをふところへ入れて、
その長者どんへ行ったと。
「おれ、お尻が鳴るのをすぐ止められるだ」
そしたら 長者どんは喜んで、
「どうかひとつ直してくれ」
って、言ったって。

 そして けつ出させて、持ってるしゃもじを裏返しにして ぺろっとなぜたら、
ピタリとその音が止まったと。
それで、こりゃあもう 日本一の占い師だというんで、長者どんも たまげて 娘の婿にしたと。

 その人は 一生安楽に その長者の跡取りになって 暮らしたと。

 いきがぽーんとさけたと。

「野底マーペー」 沖縄の民話

2012年12月12日 00時13分46秒 | 民話(笑い話・伝説)
 「野底マーペー」 沖縄の民話

 八重山は、沖縄本島から南へ およそ四百キロ、約20の島々からなり、
幾重にも折り重なって見える所から その名前がついたということです。

 今から250年程前、沖縄が琉球と呼ばれ、薩摩に支配されていた頃、
明和の大津波と呼ばれる大津波が押し寄せ、八重山に住む9000余の人々が
被害にあい 十村が半壊、その上 湿地帯の多い石垣島や西表島では マラリヤが発生して
住民のほとんどが亡くなりました。

 薩摩藩に税を差し出さなければならない首里の王府は非常に困ってしまい、
八重山に眠る広大な土地をなんとかせねばならないと思案にくれていました。
ちょうどその頃、石垣島から南に約17キロ離れた黒島では、
島の大きさの割に人口がどんどん増え、1300人余にもふくれあがっていました。

 周囲約12キロの隆起珊瑚礁で出来た山のないこの平らな島は、
水に乏しく稲は作れなかったため、人々は近くの西表島に渡って稲の出作りをして税を納め、
島中が一つになり助け合って暮らしていました。

 ある日、この島に首里王府の役人が急にやってきました。
役人は島の中央の十字路に杖を立て、「この杖で道切(みちきり)をする。
どの方角に倒れても、文句を言わずに石垣の野底に行け。」と命じました。
当時はこの道切の方法で島民を移住させたため、道を隔てて住んでいた仲の良い兄弟、
親子、愛し合う者を一度に引き裂いて、寄せ人として強制移住させられました。

 これまでにも島人は懸命に頼んだことがありましたが、取り合ってもらえず、
役人の命に背くことができませんでした。
村人は息を殺し、杖の倒れる方向を見守りました。
その中に、将来を固く約束しあった気立てのやさしい娘マーペーと
働き者の青年カニムイの姿もありました。

 共同作業の時も、西表への出作りの時も二人は片時も離れることなどありませんでした。
杖の倒れ具合で共に島に残れるか、さもなければどちらかが野底へ行かなければなりません。

 ところが、その杖はマーペーとカニムイとを引き裂くように道を挟んで
向かいあう二人の家の間の道の方に倒れました。
こうしてマーペーは島を離れなければならなくなりました。

 野底は石垣島の裏手にあり、水は豊富で土地は肥えているものの住む者もいない
密林地帯で、野底へ移った400人余の黒島の人々は、木を切り、家を建て、荒れた土地を耕しました。
目の前に見えるのは果てしなく広がる東シナ海、後ろには標高およそ280メートルの険しい野底岳、
黒島は山の陰となり見ることもできません。

 マーペーは、いつか黒島に帰れる、カニムイが迎えに来てくれる、
そう信じてくる日もくる日も一心に働き続けました。
しかし、寄せ人で移された者はどんなことがあっても決して元の島に帰ることができませんでした。

 七夕の夜には、ウヤキ星(彦星と織姫)でさえ会えるのにと、
マーペーは夜空を仰ぎながら、カニムイへの思いを募らせていました。
今まで誰も住んでいなかった野底は、緑豊かに作物もだんだん実りだしてきました。

 ところが、夏の暑さが激しくなり始めた頃から高熱と寒気が繰り返し襲い、
だんだん痩せ衰え死んでいく風土病マラリヤにかかる人が増えました。
そしてマーペーも発熱して倒れてしまいました。
なんとか悪い病気を振り払い、村を明るくしようと人々は、生まれ島黒島の歌を歌い、
祭りを行うことにしました。

 祭りの夜、三味線や歌が聞こえてくると、マーペーは幼い頃、
祭りの日に過ごしたカニムイとのことが思い出され、いてもたっていられず、
こっそり村を抜け出しました。
「あの野底岳に登ればカニムイの住む黒島が見える。」
マーペーは、熱で震える体を自ら励まし、転んでは起き、起きては転びながらも、
一歩一歩草に木に岩にしがみつき、必死に登りました。

 険しい岩山をやっとの思いで登りつめたマーペーは野底の頂に立ちました。
息を切らせ南の方に目をやったマーペーは、愕然として座り込みました。
目の前には標高520メートル、沖縄最高峰の大本岳(おもとだけ)がたちはだかり、
島影すら見えることはできません。マーペーは手を合わせ、ただ祈りつづけました。

 翌朝、村では姿の見えないマーペーに気づき、必死で探し回りました。
日頃、黒島が見たいと口癖のようにマーペーが言っていたので、
もしやと思い両親や村人は野底岳へ急ぎました。

 ちょうど山の頂に来た時、手を合わせ黒島を向いて祈るかのように立っている
不思議な石を見つけました。
それを見た村人たちは、「チィンダラサーマーペー(可哀相なマーペー)。
殿原と思い枝葉を伸ばして黒島を眺めよ。」とまるでマーペーに語るかのように
その石の隣に松を植えました。

 その松は殿原松と呼ばれ、大本岳より高く黒島の方へその枝を伸ばし、
それからこの山は野底マーペーと呼ばれるようになりました。
  
  とぅばらまとぅばんとぅや(あなたと私は)
  やらびから遊とぅら(幼い頃からの遊び友達でした)
  かぬしゃまとぅくりとぅや(おまえと私とは)
  いみしゃからむちりとぅら(幼い頃からの親しい仲でした)
  天からぬぴきめうるオヤキ星で(天上を渡るオヤキ星は)
  いそかやならぶれば定めうり(夫婦の仲が定められて)
  いかゆんでどしかりるとばらまと(一年に一度行き会う)
  ばんとやふれさたいかひみゆな(私達は会うこともできない)

  今もマーペーの故郷の黒島では、
この悲しいマーペーのことをチンダラ節として歌いつづけています。


 当民話は、沖縄国際大学文学部 遠藤庄治教授のご厚意により掲載させて頂いております。
その転載・複写、一部引用等の二次利用は、教育目的、学術的な研究目的、
啓蒙的な意義のある活動(営利を目的としないもの) において自由に可能です。