民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「私の仰臥漫録」その3 吉村 昭

2014年10月20日 00時40分24秒 | エッセイ(模範)
 「わたしの普段着」(エッセイ集) 吉村 昭  新潮文庫 2008年(平成20年)

 「私の仰臥漫録」その3 P-96

 二十年前、私は「海も暮れきる」という俳人尾崎放哉を主人公にした小説を書いた。病床生活を送っていた時、放哉の句に接して、私の死後、棺に放哉の句集を入れて欲しいと、兄に遺言のように頼んだほど強い感銘を受けた。
 放哉が私と同じ肺結核患者で、句と日記、書簡集を読み、病勢が徐々に進む放哉に託して、病床についていた頃の私を書こうと思ったのである。
 そのような作品を過去に書いた私は、十年前、母校である中学校の名簿を操って思いがけぬものを眼にした。母校である私立開成中学校の前身は共立学校で、明治十七年卒の百五名の学生名の中に子規の名がある。その年度の卒業生に、秋山真之(さねゆき)、南方(みなかた)熊楠(くまくす)がいることに驚いた。秋山は、日本海海戦時の連合艦隊主任参謀、南方著名な生物、民俗学者で、それを眼にした私は、落ち着かない気分になった。
 子規は、学友の秋山、南方と交流があって、交わされた書簡などから子規の像が立体化して浮かび上がるはずだと思った。
 さらに私が空襲時まで住んでいた家から子規が病没した、いわゆる子規庵は二百メートルほどの近さにある。
 むろん子規と私は同病で、子規よりはるかに高齢となった私は、子規を放哉のように描けるのではないか、と思った。
 私は胸のはずむのをおぼえて松山市に行き、子規の記念館を見たりした。
 子規には公表を意図せぬ病床記「仰臥漫録」があり、これを創作の中心に据えて小説に書くべきだと考え、あらためて入念に読んだ。
 凄絶な日記だが、「芋坂団子ヲ買来ラシム」という記述などがあり、その団子屋は私の家のすぐ近くの羽二重団子という老舗で現存していて、土地勘は十分だと思ったりした。
 しかし、何度か読み返しているうちに、私の気持ちはその度に萎えていった。
 子規は激しい痛みに狂わんばかりになって、自殺を考えたりしている。結核患者であった私には腹痛、胸痛はあっても、「タマランタマランドウシヤウドウシヤウ」というような痛みはなかった。
 子規は私と同じ肺結核患者であったが、カリエス患者でもあった。結核菌に骨がおかされて骨が腐り破壊され、そのために膿瘍ができ脊柱が骨折するまでになる。そのため激しい痛さに泣きわめく。
 私とは本質的に異なった悲惨な病気であり、自分の病床体験から病床の子規を描くことが不遜きわまりないことを知った。
 妹律に「殺サント思フ程ニ腹立ツ」ことも病苦故の精神の乱れで、「仰臥漫録」を読んだ私は、創作の対象として子規には到底近づけぬ自分を感じた。

「私の仰臥漫録」その2 吉村 昭

2014年10月18日 00時18分58秒 | エッセイ(模範)
 「わたしの普段着」(エッセイ集) 吉村 昭  新潮文庫 2008年(平成20年)

 「私の仰臥漫録」その2 P-96

 子規の俳句に対する論文が、私には興味深かった。
 「行脚俳人芭蕉」に、「まことや行脚は芭蕉の命にして俳句は行脚の魂なるべし」として、「吾れ日本二千余年間を見わたして詩人の資格を備ふること芭蕉が如きを見ず」と、芭蕉に最大限の賛辞を呈している。芭蕉には俳聖という文字が冠せられていて、そのような子規の観方を、私は当然のことと受けとめた。
 しかし、そのうちに神格化された芭蕉に対する批判がみられるようになり、それが次第に加速する。偶像破壊といった趣きのもので、その対比として蕪村が挙げられている。私にも意外で、それだけに興味深く、「俳人蕪村」を読んだ。
 「芭蕉は無比無類の俳人として認められ復(ま)た一人の之に匹敵する者あるを見ざるの有様なりき。芭蕉は実に敵手なきか。曰く否(いな)」として「蕪村の俳句は芭蕉に匹敵すべく、或いは之に凌駕する処あり」と、断じている。
 子規は、俳句の極度の客観美は絵画と同じで、蕪村はその点ですぐれ、芭蕉は劣っている、と記し、これが蕪村を賞讃する基本となっている。
 たしかに芭蕉には、
 荒海や 佐渡に横たふ 天の河
 という絵画を感じさせる句もあるが、画人でもあった蕪村の句には絵画的なものが甚だ多い。
 四五人に 月落ちかかる 踊かな
 鳥羽(とば)殿へ 五六騎いそぐ 野分かな
 夕風や 水青鷺(みずあおさぎ)の 脛(はぎ)を打つ
 と枚挙にいとまなく、
 五月雨(さみだれ)や 大河を前に 家二軒
 に至っては、絵画そのものの句である。
 このような芭蕉と蕪村の対比からみて、子規は視覚のすぐれた人間で、俳句を視覚によって判断しているのを知ることができる。私も強く自覚はしていなかったが、俳句に子規と同じ視点によって接していたのを感じ、共感をおぼえた。

「私の仰臥漫録」その1 吉村 昭

2014年10月16日 00時03分15秒 | エッセイ(模範)
 「わたしの普段着」(エッセイ集) 吉村 昭  新潮文庫 2008年(平成20年)

 「私の仰臥漫録」その1 P-96

 十代後半から二十代前半にかけて、文学全集におさめられた明治文学の小説を読みつづけた。初めの頃は、多分に読んでおかねばならぬという義務感に近いものであったが、いつの間にか読むことに没頭し、その文学世界の中に身を託していることに快さをおぼえていた。
 漢学の素養豊かな小説家の緊縮度の強い文章、和歌の影響を受けたにちがいないリズム感のある文章が次々に目の前に現れてきて、後者の文章を書く代表として山田美妙の小説に色彩と艶(つや)を感じたりした。
 そのような物語とも呼べる小説とかけはなれた所に、子規の諸作品が、岬の先端にある燈台のように弧然と立っているような気がした。弧然とはしていても、子規の存在が明治文学に奥行きの深さと豊潤さをあたえているようにも思えた。
 私は、子規の活力のある文章が好きで、つぎからつぎへと読んでいったが、その根底には私が子規と同じ病気にかかっていたことがあったと思う。
 中学二年生の時に私は肋膜炎という肺結核の初期の発症に見舞われ、五年生の夏に再発し、さらに中学校と卒業してから三年後に喀血して末期患者となった。幸いにして、多分に実験の趣きのあった手術を受けて死をまぬがれはしたが、体はただ生きているというだけの弱弱しさで、いつ再発するかもわからぬ不安にとりつかれていた。
 そうした私に、子規が病みおとろえた病床でつづった「病牀六尺」は、それまで読んだ活字本とは異なる衝撃を私にあたえた。
 病床の子規の日々は、絶対安静で寝たきりですごした日々の私そのままであり、虚脱したようにすごした私とは異なって生と死について思考し、芸術論を生きる支えとしている姿に感動した。
 死は確実に身近にせまっていて、それを十分に容認しながら朝を迎え、夜の中に身をゆだねる子規の勁(つよ)さに、自分もそうあらねばと思ったりした。

「知の職人たち」 紀田 順一郎 

2014年10月14日 00時28分17秒 | 雑学知識
 「知の職人たち」  紀田 順一郎 著  新潮社  1984年(昭和59年)発行

 「あとがき」

 書棚を眺めていると、ひときわ強烈な存在感を誇っている辞書がある。それらの編者はどのような人手、どのような経緯で企画され、どのような方法で編纂されたのだろうか。いつも気になっている数冊の辞書について、その成立のドラマを調べてみたのが本書である。
 最近のように、辞書の世界でもコンピューターを利用した共同編纂方式が一般化すると、なんとなく無味無臭、没個性的なものになりがちだが、戦前までの辞書には一人の個人の生き方が反映され、その編者(著者)の夢も希望も挫折も、すべて行間ににじみ出ていた。いまから見れば欠陥も多いが、魅力にも富んでいた。まさに辞書は<情報パック>や<システム>ではなく、<人格>だったのである。そうした辞書の輩出した明治から昭和戦前にかけてを、私は<辞書の英雄時代>と呼ぶことにしたい。
 多くの人々が、一生で最も重要な、そして気力も充実した時期に、大部の辞書を編纂し、未踏の地に爪跡を残していった。吉田東伍や斉藤秀三郎に代表されるように、それらの人々は天才ではあったけれども、生活者としては平凡な市井の人というに過ぎない。辞書編纂に必要な歳月や経費というものが膨大なものである以上、一生の賭けであったということは忘れてはなるまい。少なくとも、大勝負であった。近代にあっては、学界の事情や出版のあり方から、よい辞書の出現に知的英雄たちの跳躍力に期待しなければならない部分が多かったことは認めなくてはならないだろう。
 本書はそのような時代における、いかにも個性的な名辞書の系譜である。
 
 中略

 たまたま本書には、一つの黄金時代を過ぎた人たちが、淋しげな後ろ姿を見せて静かに退場して行く劇的な場面が二つほどあるが、執筆しながら、彼らの著書に、一層の愛着が生じるのを禁じ得なかった。読者に同じような体験をしていただければ、本書の目的はほぼ達せられたことになる。

 後略

「執念の書」 吉田東伍

2014年10月12日 01時49分41秒 | 雑学知識
 「知の職人たち」  紀田 順一郎 著  新潮社  1984年(昭和59年)発行

 「天才学者の一本勝負」 吉田東伍

 「執念の書」 P-9

 早稲田大学図書館の書庫の奥深く、545の帙(ちつ)に収まって、数万枚の膨大な原稿が保存されている。美濃紙に木版手刷り、25字詰め14行の原稿用紙は毛筆の細字でびっしり埋め尽くされ、ところどころには苦心の推敲を窺わせる貼紙があるが、わずかな例外を除いて、たった一人の筆跡であることに驚かされる。字数にして1,200万字、おそらく個人の著述としては最大規模であろう。
 明治の後半という時代に、一人の貧しい無名の学究が、ひたすら学問情熱に駆られてこの原稿を綴った。学歴はなく、前途に何の保証もなかったが、天びんの才質と情熱に恵まれていることだけが、わずかな救いだった。周囲の人々も、その可能性という名の手形に賭けた。
 13年という年月を経て、すべての原稿が成ったとき、著者は序文にただ一言、「悪戦僅かに生還するの想いあり」とのみ記した。その真相を知る者はいまや絶えてしまったけれども、多くの心ある研究者たちは、いまなお学問的情熱そのものの源泉を、本書の中に見出している。書架に備えておくだけで不断に鼓舞されるという人も多い。
 著者の名は吉田東伍。書名は『大日本地名辞書』。1982年に「余材」と名づけられた未刊の稿本、約8,000枚を加えた増補版が完結した。初版以来70数年ぶりという息の長さも驚異だが、全国的に地名保存運動の動きが活発になっている現代にあって、地名の歴史的考証を目的とした本書の価値は、むしろ高まる一方とさえ言うことができる。そうした運動の一環として地名学の発展を目指す谷川健一は、「私は目標を模索する必要はない。すでに地名辞書がある。ひとりの人間の志と気迫と執念がかくも見事に業績として結晶した例を私は知らない。光栄ある辞書よ」(増補版推薦文)と述べた。この本の普遍的価値を、まことによく示していると言えよう。