民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「将棋」 その2 菊池寛

2014年12月20日 00時28分38秒 | エッセイ(模範)
 「将棋」 その2 菊池寛  所載「日本の名随筆 別巻8 将棋」 作品社  1991年

 玄人(くろうと)と指した場合、玄人が本当に勝負をしているのか、お世辞に負けたりしているのではないかと云うことは、頭のいい人なら、誰にでも気になるだらう。
 「若殿の 将棋桂馬の 先が利き」という川柳があるが、それと同じように玄人相手のときは、勝敗とも本当でないように考えられる。

 しかし、現今の棋士は、相当の人格を備えているから、追従負(ついしょうまけ)などはしないと信じていゝと思う。
 ただ、玄人と指す場合、最初の一回は、玄人は自然に指しているのである。
 だから、最初の一回は勝ち易い。
 しかし、一度負けると玄人は、今度は負けまいと指すであろう。
 だから、玄人に二度続けて勝った場合は、たしかに勝ったと信じていゝのであろう。
 二度つゞけて負けると、三度目には、玄人はきっと定跡を避けて力将棋を挑んで来るが、この三度目を負すと圧倒的に勝ったと云ってよいだろう。

 初段に二枚以上の連中の人達では、一枚位違っていても、平手で相当指せるものである。
 四五番の中では、下手の方が一二番は勝てるものである。
 だから、一枚位違っていても、いつも平手を指している人があるが、しかしそれでは上手の方はつまらないと思う。
 少しでも力が違っている場合は、ちゃんと駒を引いて指すべきだ。
 でないと上手の方がつまらないと思う。

 玄人と素人との棋力を格段に違つているやうに云う人がある。
 素人の初段は、玄人の初段とは二三段違うと云うのである。
 しかし、自分は思うに玄人と素人との力の違いは、ただ気持の問題で、一方は将棋が生活のよすがであり、その勝敗が生計に関し、立身に関すると考えるからだと思う。
 素人だって、玄人同然の必死の気持で研究し対局したならば、そう見劣りするものではないと思う。

 将棋を指すときは、怒ってはならない、ひるんではいけない、あせってはいけない。
 あんまり勝たんとしてはいけない。
 自分の棋力だけのものは、必ず現すと云う覚悟で、悠々として盤面に向うべきである。
 そして、たとい悪手があっても狼狽してはいけない。どんなに悪くてもなるべく、敵に手数をかけさすべく奮闘すべきである。そのうちには、どんな敗局にも勝機が勃々(ぼつぼつ)と動いて来ることがあるのである。
 初心者の中には飛車を取られると、「えっやっちまへ!」と云って、角までやってしまうようなことを絶えずやっているような人がある。
  「将棋は、先(せん)を争うものである」と云うことを悟って上手(じやうず)になった人がゐるが、先手先手と指すことは常に大切なことである。
 それから、お手伝いをしないこと、例えば敵が歩を打って来ると、これを義理のように払って、敵銀を進ませてやると云うようなことを初心の中(うち)は絶えずやっているが、このお手伝いをやらなくなれば、将棋は可なり進歩していると云ってもよいだろう。

 ゐた。→いた。 云ふ。→云う。 行つた。→行った。 登るやうな→登るような


「将棋」 その1 菊池寛

2014年12月18日 00時42分49秒 | エッセイ(模範)
 「将棋」 その1 菊池寛  所載「日本の名随筆 別巻8 将棋」 作品社  1991年

 将棋はとにかく愉快である。
 盤面の上で、この人生とは違つた別な生活と事業がやれるからである。
 一手一手が新しい創造である。
 冒険をやって見ようか、堅実にやって見ようかと、いろいろ自分の思い通りやって見られる。
 而(しか)も、その結果が直ちに盤面に現われる。
 その上、遊戯とは思われぬ位、ムキになれる。
 昔、インドに好戦の国があって、戦争ばかりしたがるので、侍臣が困って、王の気持を転換させるために発明したのが、将棋だと云うが、そんなウソの話が起る位、将棋は面白い。
 金の無い人が、その余生の道楽として、充分楽しめるほど面白いものだと思う。

 将棋の上達方法は、誰人(だれ)も聴きたいところであろうと思うが、結局盤数(ばんかず)を指すのが一番だと思う。
 殊(こと)に、自分より二枚位強い人に、二枚から指し、飛香(ひきょう)、飛、角、香と上って行くのが、一番たしかな上達方法だと思う。

 自分は二十五六のときには、初段に二十段位だった。
 つまり、初段に大駒二枚位だったと思う。
 その頃京都にいたが自分が行っていた床屋の主人が、将棋が強かったので、よくこの人と指した。
 最初は二枚落(おち)だったが、飛車落までに指し込んだ。
 それから東京へ来た。
 大正八年頃から、湯島天神下の会所へ通った。
 茲(こゝ)の主人は、館花浪路(たてはななみぢ)と云う老人で、井上八段の門下で、幸田露伴先生とは同門だった。時々幸田さんのところへお相手に行いていた。この老人は、会所を開くとき、所々の将棋会に出席して賞品の駒や将棋盤を沢山かせぎためて、それで会所を開いたと云うのだから、可なりの闘将だつたのだらう。
 この人に自分は、最初二枚を指した。
 二枚は局半(なかば)にして相手が、駒を投じた。
 其後(そのご)飛香落から平手(ひらて)までに指し進んだ。
 この会所に、三好さんと云う老人がいた。
 此(この)人は将棋家元大橋家の最後の人たる大橋宗金(そうきん)から、初段の免状を貰つていると云う珍らしい人だつた。
 よく将棋の古実などを話してくれた。
 ものやわらかいしかし皮肉な江戸つ子で、下手(したて)には殊に熱心に指してくれた。
 この人も飛香落から指して、平手に進んだ。
 この頃は、自分として、一番棋力(きりょく)の進んだときだと思う。
 この会所で、今の萩原六段と知り合いになった。
 大阪から来たばかりの青年で、まだ土居さんに入門しない前だつた。
 香落で指して、滅茶苦茶に負けた。
 恐らく飛角香位違っていた。

 とにかく、二枚位違う人に、だんだん指し進んで行くことは自分の棋力の進歩が見えて、非常に愉快なことである。
 しかしそう云う場合は、絶えず定跡(ぢやうせき)の研究が必要である。
 二枚落で指しているときは二枚落の定跡を、飛香落で指しているときは飛香落の定跡をと、定跡の研究を進めて行くべきである。

 将棋をうまくならうと思えば、定跡は常に必要である。
 殊に初段近きまたはそれ以上の上手と指す場合、定跡を知つていると云うことは、第一の条件である。 定跡を知らないで上手(うわて)と指すことは、下駄履きで、日本アルプスへ登るようなつまらない労力の浪費である。
 例へば、二枚落を指す場合、六五歩と下手が角道(かくみち)を通すか通さないかは、山崎合戦で、天王山を占領するか否か位の大事な手である。
 自分など下手と二枚落を指し、下手が五六歩と突いて来ないと、こりや楽だと安心するのである。
 語を換えて云えば、六五歩と角道を通す手を知らないで上手と二枚落を指すことは、槍の鞘を払わないで突き合つているようなものである。

 飛香落にも、角落にも、飛落にも、ゼヒとも指さなければならない手があるのである。
 だから、こう云う手を知らないで、戦ったのでは勝てるわけはないのである。
 しかし、もし六五歩と云ったような二枚落の定跡のABCを知らずに、上手と指して勝てる場合があったら、それは上手がそれだけの力がないので、所謂手合違いの将棋である。
 そんな場合は角落の違い位しかないのである。
 語を換えて云えば、定跡を知らなかったら、上手に向って角一枚位は損である。
 定跡を知れば、飛角でも勝てるのが、定跡を知らなければ二枚でも勝てないのである。

 ゐた。→いた。 云ふ。→云う。 行つた。→行った。 登るやうな→登るような





「破天荒の計画」 吉田東伍

2014年12月16日 00時05分56秒 | 雑学知識
 「知の職人たち」  紀田 順一郎 著  新潮社  1984年(昭和59年)発行

 「天才学者の一本勝負」 吉田東伍

 「破天荒の計画」 P-18

 前略

 起稿が明治28年末、第一冊の刊行が33年3月、最終の『汎論・索引』が40年10月である。分冊仮綴本で全11冊、総5,180頁、「歳月を閲すること十有三春秋、悪戦僅かに生還するの想いあり、回顧して偏(ひとえ)に短才微力に愧(は)ず」(序言)という控え目な表現の中に、万感がこもっている。生活苦と闘いながら32歳から44歳まで、人生の最も気力充実した期間をこの著作に捧げつくしたのであった。
 悪戦苦闘というのは、執筆そのものの苦しみを指すことはいうまでもないが、参考文献の閲覧に際しての苦労をも意味している。まず蔵書機関に出入りするために人を介する必要があった。蔵書家も上流の人が多いが、なかなか警戒して見せない。貸し出し不可という場合も多かった。そうした家は写字生が同行するのさえ嫌うので、一人で出かけて行って、その場で暗記しなければならなかった。
 しかし、ここに余人の及びがたい点は、東伍の抜群の暗記力であった。彼は参考書をすべて頭に入れてしまい、自在に引用することができるという超人的な頭脳を持っていた。これこそ、数千頁の大著述を僅々13年で完成し得た第一の理由でなければならない。
 つぎに彼は書物を読むのが非常に早かった。二行、三行を一度に読んでしまうという特技を持っていた。古語に「五行倶(とも)に下る」とあるのを文字通り実践したのである。平たくいうなら今の速読術であるが、このために借りた本は10日以上手許にとどめたことはなく、しまいには書物の扱いに喧(やかま)しい蔵書家も安心して貸してくれるようになった。

 中略

 そいう具合に転々とし、その間ほとんど一人暮らしだった。家族がいると気が散るという理由からである。写字生は置かない期間もあったが、多い時には4人雇っていたこともある。その一人、新潟出身の松本弘の回想によると、終日机に坐ったきり滅多に話をすることがなく、笑いもしなければ怒りもしない。朝6時に起きるとホンの申しわけにチョコチョコと顔を洗うが、時間が惜しいので歯は磨かない。食事は朝も昼も簡単にパンで済ましてしまう。夜は雑炊という、いかにも質素な食生活であった。就寝は10時だった。運動不足のため、顔色は悪く痩せていた。一時は結核の気味もあったという。

 中略

 大きな計画を立てて、長丁場を倦(う)まずたゆまず、ひたすら歩み続ける根気と執念、なによりも、世俗的な顧慮をしながらでは到底できない仕事である。唯一、羽目を外す可能性のある酒癖さえも抑えこんで、日常の関心を己れの学問専一に集中したところは、まことに人間離れしているとしか言いようがない。

「昭和三十年代がなぜ流行るか」 南 伸坊

2014年12月14日 02時40分11秒 | エッセイ(模範)
 「オレって老人?」 南 伸坊(1947年生まれ、元「ガロ」編集長  みやび出版 2013年

 「昭和三十年代がなぜ流行るか」 P-134

 前略

 しかし、昭和三十年代を懐かしむ人々は、「明るさ」に憧れている人ばかりじゃないのではないか。貧しかった当時の日本人なら、格別の努力を必要とせずに「けなげ」になれた、その「けなげ」さを懐かしんでいるのではないかと私は思う。
 親兄弟、ご近所同士、たすけあって生きていかなきゃやっていけない時代、には人々は「たすけあう」ことに努力を必要としない。そうするのがあたりまえ、とみんな思っていたからだ。
 そうして、そのみんなが、ぜんたい世の中を「貧乏」から救わなきゃと思っていっしょけんめいに働いたのである。それが悪かったとは言えないが。豊かになると人々は「助けあう」のがむずかしくなってくる。
 隣人が、ふるさとから送られてきた野菜を、おすそわけに持ってくるのを、口では感謝しながら胡乱(うろん)に思っている。豊かな時代は、人々をそのように隔てることになってしまったのだった。
 せっかく貧乏からみんなで脱出したのに、貧乏の方がよかったのか!?と、いっしょけんめいにはたらいた私たちの父母や先輩は思うだろう。私たちだって、やっぱり貧乏から逃れようと、いっしょけんめいに働いたのだ。
 貧乏の象徴みたいな、古ぼけた下見板張りの木造アパートや、すすけたモルタルの壁や、線路脇のホーロー看板や、裸電球や、さみしいカサのついた街灯や、野暮ったい、名前を書く欄のある黒いズック靴や、練炭や豆炭や、タドンや、アンカや、ブリキの湯たんぽや、ブリキのバケツや、アルマイトのやかんや洗面器や、ベタベタする蝿取紙や、ちびた下駄や、クルクル回る便所の空気抜きや、二十燭(しょく)の電球や、そうしたあれほど嫌っていた物たちが、なんで今はこんなに懐かしいのか。
 貧乏くさいアズキ色の電車や、黒い木造のゴミ箱や、愛国党のポスターとどもり赤面対人恐怖のハリガミや、枕木を廃物利用した線路脇の柵や、コンクリで作った安物の瓦や、コールタールを塗った波板トタンや、七輪や、お釜や五徳や十能や、ペンキを塗り重ねた郵便ポストや、向こう側が歪んで見える硝子戸や、粗悪なボタンや、駄菓子やメンコやビー玉や、キビガラ細工やリリアンや、けんだまやベーゴマや、はっかパイプや、しょうのうで走り回る船や、ソースせんべいや、くりぬきや、フガシや、ぱんぱんいうだけのピストルや、そういうモノを見つけるとジーッと見てしまう。
 思わず買ってしまったりもする。
 中国や東南アジアを旅行すると、そんなものと、全く同じではないにしても、同じ匂いのする安っぽい、貧乏くさいものを、やっぱりじっと見てしまうのだ。
 思わず買ってしまったりもするのだった。あんなに豊かなアメリカや、すすんだヨーロッパのハクライ品がえらいと思ってたのに、いったいどういうことだろう?と考えてしまうのだった。
 それは、私がおじいさんになったからである。自分の若かったころ、コドモだったころが好きなのである。そのころには嫌いで嫌いで大ッ嫌いだったものだって、自分の若々しい時代のものだったら好きなのだ。
 おそらく、人間は懐かしがる動物である。懐かしがるのは、きっと脳ミソのくせである。懐かしいと楽しかったり、うれしかったりするのが脳ミソには好都合なのに違いない。

「で、まあ俳句でも」 小林 恭二

2014年12月12日 00時14分41秒 | エッセイ(模範)
 「ベスト・エッセイ」 2014  日本文藝家協会編  光村図書

 「で、まあ俳句でも」 小林 恭二(作家)  P-189

 前略

 唐突だが、最近俳句を始めた。こう書くと何を今更といわれそうだが、俳句についてあれこれいうのは好きだったが、二十三歳で俳句をやめると友人たちに宣言して以来、まともに詠んだことはなかった。やめた理由はいろいろあるが、こんな面白いことをやってると人生が駄目になると思ったからだ。ただ死期が近づき(主観的にだが)我が身一身の幸福を願うようになると、人生駄目にするのもまたよし、いやもともとさしたるものでもないんだから、死期を迎えたときちょうどゼロになるようにこつこつ駄目にしてゆくくらいの方がいいのではないか、そのためには俳句が絶好な小道具になるのではないかと思い至った。

 俳句がどう人生を駄目にするかについては、晩年の芭蕉のエピソードをもって換えよう。芭蕉は辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を詠んだとき、なかなか句形がまとまらず苦吟した。そのうちにはたと気づく。「わしは今死のうとしているのだ。こんな馬鹿げた発句に時間を使うよりもっと大事なことがあるのではないか」。が、そうはいっても句が気になってひねくりまわした挙句、渇出のようなかたちを得、而(しこう)して死んだ。句を気にするあまり、人生でもっとも大事なこと、すなわち死を忘れたのである。これはこれで幸福であったとすべきではないか。如何(いかが)。

 「新潮」五月号