民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

大学生の記章 (その3) 花森 安治

2016年10月18日 00時14分18秒 | 雑学知識
 「風俗時評」 花森 安治 中公文庫 2015年

 本書「風俗時評」におさめられた文章は1952年から翌年にかけて、同名のラジオ番組で、花森が語ったものである。

 大学生の記章 (その3) P-78

 最近、都内の、これは都立の非常にまあ評判のいい高等学校、いま男女共学ですが、その学校で男の生徒のほうから、制服を作ってくれという要求が出たという話を聞きました。その学校では男の子の服装は自由にしてあって、背広を着ている生徒もあれば詰襟を着ている子もある。ただ帽子だけは、何と言いますか、テニスのときにかぶるような紺色に染めた帽子なのですが、それも帽子をかぶるのだった、あれにしなさいという程度らしいのです。それを生徒の方では、ああいう帽子でなくて、一般の学生がかぶっているような丸帽、あれにして貰いたい、そうして服もちゃんとした金ボタンを付けた制服をきめて貰いたいということを、学校の中で自治委員会といいますか、何か生徒のそういう委員会のほうから非常に強い要求が出て、校長先生始め頭を悩ましているという話なのでうs。
 考えて見ますと、この生徒達は、意識してではないでしょうけれども、自分は学生である、都内の非常に評判のいい都立の高等学校の生徒であるということを、人にも知って貰いたい、自分もそういう誇りを持ちたい。それを手っ取り早く表すためには、制服がほしい、そういった気持ちではなかろうかと思います。
 そろそろ新学期になってあちらこちらの学校で、制服の問題が非常にやかましくなって来ていますが、そして、これはいろいろな角度から論じなければならないでしょうけれども、しかしどうもいろいろの議論を聞いておりますと、この特権意識という観点からこの問題を考えている人が少ないように思います。親として経済的にいいとか、コドモが可哀想だから制服を作ってほしいとか、一律にしたほうがちゃんとして姿勢もよくなるとか、そういう意見が多いのですね。まあ勉強がしやすいとか、いろいろな意見がありますけれども、その傍ら、制服が一つの特権意識を作りつつあるということ、これを見逃してはならないと思います。

大学生の記章 (その2) 花森 安治

2016年10月16日 00時10分45秒 | 雑学知識

 「風俗時評」 花森 安治 中公文庫 2015年

 本書「風俗時評」におさめられた文章は1952年から翌年にかけて、同名のラジオ番組で、花森が語ったものである。

 大学生の記章 (その2) P-75

 あご紐で記章を隠すか、隠さないかというようなことは、極く小さな問題で、とかく見逃されてしまいますけれど、実はここに大変大きな問題があるように思います。何も年がら年中、24時間、われは帝大生であるということを人に見せていばる必要がどこにあるのでしょうか。しかし実際は、われわれが学生であった頃を振り返ってみますと、帝大生というものは、そういう私立の大学と間違えられては困るというので、わざわざ帝大の記章をはっきりさせる、その気持ちの中には、帝大生という一種の特権意識が、すでに培われておった、と考えないわけにはゆかないのです。
 今日、ボクらの同級生であるとかその連中がときどきクラス会などをいたしますが、そういう席で出る話は、あいつは学校はどこだということ、それから、やはり帝大出は立派だとか、やはり帝大でなくてはねなどというようなことを、公然と言う人間が多いということであります。そういう連中は、主に立派な銀行であるとか、大きな会社であるとか、あるいは一番多いのは官庁ですけれども、お役人、まあいま中堅どころで活躍している連中、それが同窓会や何かで、そういうことを言う。同窓会でなくとも、友達が2、3人寄りますと、すぐそういう話をする。これはボクも同じ学校を出たんですけれども、われながら何か非常に腹の立つ、背中の寒いような現象です。
 この社会にはいろいろな階級があるというのは、勿論これは誰もご存じのことですけれども、自分は帝大を出たとか、自分は一中、一高、東大という出世コースを辿ったのであるとか、自分は学習院であるとか、自分は慶応であるとか、そういうような、一つの意識を死ぬまで鼻の先にぶら下げて生活をしているということは、(その人がどう考えて生活をしようと、それはボクの知ったことではありませんが)困るのは、そういう人たちは、この世の中をリードする立場や地位にいる人が多いということなのです。その人たちは、個人としては、どうお考えになろうと結構ですけれども、その人の考え方、そういう人たちの考え方が、国全体をそれだけ歪めているのではないかと思います。最近の国鉄の乗り越し手数料の問題を考えましても、こういうバカなことを考えるということは、やはりそこに思い上がった特権意識、一般国民というものを、虫けらのように考えて、自分だけは何か高い台の上にいるような意識、気持ち、こういうものがあるからだと思います。かならずしもそれは帝大だけの意識ではないのでしょうけれども、とに角、一般の国民とは違うという気持ちが、知らずしらずのうちに、何十年の間にその人の細胞の隅々にまで沁み通っているのだと思います。
 そういう意味で、これからの若い人達には、そういうふうな一つの特権意識というものを、なるだけ培わないように、そういう機会は、非常に敏感によけて通るようにしたいもので、それはいろいろな点で考えられるでしょうけれども、制服なども、そういう観点から考え直してみる必要があろうかと思うのです。


大学生の記章 (その1) 花森 安治

2016年10月14日 01時27分59秒 | 雑学知識
 「風俗時評」 花森 安治 中公文庫 2015年

 本書「風俗時評」におさめられた文章は1952年から翌年にかけて、同名のラジオ番組で、花森が語ったものである。

 大学生の記章 (その1) P-74

 昔、帝国大学という大学がありました。これは、いまは東京は東京大学、京都は京都大学というふうに変っております。帝国という名前が合わないので、変ったのだろうと思いますが、それにもかかわらず、昔の帝国大学、略して帝大、それといまの東京大学、京都大学、九州大学といった新らしい官立大学、この大学との間に、依然として変らないものがある。それは何かといいますと、これは不思議ですが、学生が着ている服であります。つまり大学生の制服、帝大生の制服というものは、昔と現在とでは少しも変りはない。依然として角帽と金ボタンの付いた黒い服なのです。
 それと帝大の帽子、つまり角帽についている記章、「大学」と書いてありますが、実は、東京の或る有名な私立大学の記章が、アレと非常によく似ているのです。どちらが先にきめたのか、多分私立大学が帝大を真似たのかもしれませんが、そんなことはどうでもいいとして、とに角非常によく似ている。帝大のほうは「大学」とだけしかありませんが、私立大学のほうは、その「大学」の「学」という字の両側にその学校の名前が入っている。ところが、これはもうボクが学生時代の古い話で、今では意味はないと思いますが、あの制帽には、あご紐と申しますか、正しい名前は何というのだか知りませんが、とに角、前のほうに紐がついております。あの紐が、丁度記章の下に三分の一ぐらいかかるわけなのですが、そうしますと、その私立大学のほうは、丁度学校の名前が隠れてしまって、一見したところ帝大とちょっと区別がつかない。そういうようなわけで、まあ電車なんかに乗って、前に坐っただけでは、これは帝大の学生であるか、その私立大学の学生であるか、ちょっと見当がつかなかったというわけなのです。それはそれで、何もかまわないのですけれども、ところが、帝大の学生のほうでは、何かそういう私立大学の学生と混同されるということが非常にシャクにさわる、シャクにさわるというのも変ですけれども、自分は天下のて帝大生であるというのを、何とかして見せたいというのでしょう、いつの間にやら、そのあご紐ですか、そのバンドの上へ記章を出す、つまり記章の下へバンドを押し込んで、いかなるときでも、我はまぎれもない天下の帝大生であるということを見せびらかすといった風習が、我々の学生の頃、ずっと広まっておったのです。

「前世への冒険」 森下典子

2016年10月12日 00時07分46秒 | 本の紹介(こんな本がある)
前に、お茶を習い始めた体験を書いた「日日是好日」森下典子著を紹介した。
この人の文章のうまさに舌を巻いて、ずっと気になってなっていた。
何かほかの本を読んでみようと手に取ったのが「前世への冒険」光文社知恵の森文庫。
少し読んでは休み、また少し読んでは休みを繰り返していたが、
四分の一くらいを過ぎたあたりから止まらなくなった。
フリーライターの経験からきているのだろうか、文章力は確かだ。
時々うならせる表現にぶつかる。
フィクションなのかノンフィクションなのかどっちなのだろう、
謎解きにひきつけられて、ぐいぐいと最後までもっていかれた。

「日本語の学校」 コラム その4 鴨下 信一

2016年10月10日 00時13分27秒 | 朗読・発声
「日本語の学校」 声に出して読む<言葉の豊かさ> 鴨下 信一 平凡社新書 2009年

 コラム その4 P-134

 呼吸を整えて――まだ台本は開けられない(2)

 客席に正対せずに、少し角度(アングル)をつけて立つなり座るなりする。こうした姿勢をとると、どちららの足が自然と引かれる。いわゆる半身になる。これがいいのです。これで下半身に力が入る、相撲と同じで足がそろうと力が入らないので投げ飛ばされる。両足をそろえたらとび上がれない。朗読や演技にはスポーツとの共通点が多いのです。
 ずっと同じ姿勢で朗読をしていると、すごく疲労するもの。どちらか片足を引くなり前に出すなりしておくと(オーバーに引いたり出したりしないのはもちろん)、体重が片足だけにかかる。その足を交替させてゆけばいいのです。実は皆さん無意識のうちにやっているはず。当然、意識してやったほうがいい。
 ただ、読みはじめは両足がそろってないと、妙に崩れた姿勢に見えてよくない。少し朗読が進んでから、自然にわからないように楽な姿勢にする。
 朗読をする時、身体のどの部分に注意すればよいか。コルところです。マッサージされて気持ちのよいところ。肩・首筋。足の裏。
 いまの足の位置も足の裏に属する注意点ですが、ぜひ覚えておきたいのは、足の親指に力が入るような靴なり履物を履くこと、これです。
 着るものは、あれがいいこれがいいというくせに、靴・履物はいいかげんですね。ぼくはこちらのほうがずっと大事だと思いますよ。足に力が入らないと、本当に<声が出ない>。そして見た目、<姿勢>が悪くなる。
 靴はキツくて硬いのは損、履物の鼻緒は緩めておく。だいたい履き慣れたものがいいのだけれど、その場合は<裏>をちゃんときれいにしておく。意外と舞台では裏が見えることがあるのです。観客が下から見上げていることを忘れないように。特に靴の<横>の部分はきれいにしておくこと。
 もう一つ、肩の使い方にもコツがある。たとえば舞台に立っていきなり呼吸が困難になったような気になることがある。
 こんな時には、両方の肩甲骨(貝がら骨)をくっつけるような動きを二、三度やるといい。肩の固まったのがホグれます。呼吸もラクになる。これなら客席から見えない(肩を上下させるとわかってしまいます)深呼吸などよりずっといい方法です。
 読み出す前の注意はこんなところです。もう本を開いてもいいですよ。