民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「日本語の学校」 コラム その3 鴨下 信一

2016年10月08日 00時30分11秒 | 朗読・発声
 「日本語の学校」 声に出して読む<言葉の豊かさ> 鴨下 信一 平凡社新書 2009年

 コラム その3 P-122

 身体に角度をつけよう――まだ台本は開けられない(1)

 舞台で立って読むか、腰かけて読むかは決まっていると思います。めったにないが、坐って読む、実はこれがいちばん声が出るのですが、そうすると高座・見台・座ぶとん、出来れば邦楽の人などが使う尻あて(折りたたみの小さな脚立のようなもの)等、いろいろ道具がいる。
 立つにしろ、腰かけるにしろ、マイクの高さ、椅子の位置、台本を置くもの(よく譜面台を使いますが)、これらの高さを調節する必要がある。落ち着いてやること。台本を持ったままやろうとするとトチる。台本を譜面台等に置くことが第一。ほくは台本立てを使わない時は、この時のために小卓を一つ脇に置くことをすすめます。飲み物をのせようと思えばのるし、まさか後でお尻をおろす椅子に、貴重な台本を置くわけにいかないじゃありませんか。
 前もって椅子やマイク等の機器は実際に手を触れて動かしてみておくこと。けっこう重かった固かったりして、動かなくてあわてる。台本立ても同様。
 子供にいうようなことをいうな、いわれそうですが、みっともないことが起こるのはこのへんです。役に立つことを教えましょう。あなたが立ったり、腰かけたりする<角度>のことです。
 まず台本が顔で隠れやすくなる。もっともこれは、少しぐらい角度をつけたところで解決しません。真横に向けば顔は隠れないけれど、まさか出来ませんよね。むしろ台本の<高さ>が問題で、これで顔が隠れてしまうんです。これが困りもの。適度の高さ、これが一概にいえない。舞台の高さ、客席との関係が場所によってちがう。ただ、台本がたいてい高過ぎる。台本を顔に寄せると危険水域になる。自分が読みやすいところ、読みやすい距離がよくないという皮肉な事実がある。
 台本をちょっと離す、これでふだんから練習してみましょう。さらに舞台端(ばな)、客席との境からの距離も影響してきます。他人に見てもらうことが絶対必要。顔が見えなくてもいいなんて(誰もいいませんよね)ことはないのです。口元は少なくとも見えていたい。
 で、その顔が良く、美しく見えるのが、真正面からほんの少し角度がついたところなのです。自分の右肩をちょっと引いたぐらい(左肩でもいいのですが、通常舞台ではこうします。理由は省略)。
 昔の映画の二枚目(例えば高倉健さん)、美女たちはアップの時、必ずこのちょっと肩を引いたポーズをしている。これが証拠だと思ってください。
 もう一つ、もしパフォーマンスで照明を使っていたら、このほうが眩しくないのです。

「日本語の学校」 コラム その2 鴨下 信一

2016年10月06日 00時30分17秒 | 朗読・発声
 「日本語の学校」 声に出して読む<言葉の豊かさ> 鴨下 信一 平凡社新書 2009年

 コラム その2 P-86

 舞台に出る――アガらないために(2)

 いよいよ、舞台への第一歩。
 これが危ない。あなたはどちらの足から出ますか。右足?それとも左足?そんなのどっちでもいいじゃないか、といってはいけない。
 決めてやってごらんなさい――すごく安心するはず。安心すれば、決してアガらない。
 もっともあなたがいま出を待っている場所(舞台の袖といいます)から、あなたの姿が観客に見えてくるところまでには、何歩かあるはず。それを計算に入れて、舞台下手(客席から見て左側)から出る時は(見えてくる瞬間に)左足から、逆の舞台上手から出る時は右足から出るようにすると、最高です。もう上級者です。
 何故それがいいか。実際に立って歩いてみるとわかる。こうすると<早く客席から顔が見えてくる>のです。下手(客席から左手)から出る時、左足が前に出れば、体が少し正面に回転するはずです。逆に右足から出れば、背中のほうから舞台に登場することになる。
 これで登場が堂々とする。背中から出ると何かコソコソ出てきたような感じを与えるのです。これは損ではないでしょうか。
 これもいっておこう。和服の女の人はもし条件が許せば上手から出たほうがいい。これは裾前がはだけないですむコツです。和服の打ち合わせはそうなっているはず。ミットモなく見えることを避けるのがアガらないコツ。
 出ることはこれで出られたが、止まれますか。舞台の決められた場所に止まれないで、チョコチョコと歩数を合わせるのは、ほんとうにミットモない。幕が開く前に練習しておくこと。まず決められた場所から、逆にスタンバイの場所に歩いてみて歩幅と歩数を計算して、それから練習を開始したほうがいい。プロはたいていそうしています。
 決められた場所に来ました。そこで一礼。マイクの真後ろに立ってお辞儀をしてオデコをぶつける人を何人も見ています。あなたはそんなことはありませんね。
 で、ここからが肝心です。慣れないと、なかなか舞台から客席を見られない。客席が見えた瞬間、アガる。
 防ぐ方法は、ただ一つ。自分で意図的に、自分の意思で見ること。つまり、いつ見るかをちゃんと決めておくことです。お辞儀の前か、後、どちらか。前なら、お辞儀をしている間に、後なら、次に身体が回転している間に(マイクや譜面台の場所へ行くために、横向きになるはず)、気持ちは落ち着くはずです。
 気持ちを落ち着かせる箇所を、テキストに何ヶ所かセッテイングしておくこと、これが大事です。それは、よく考えれば、何ヶ所もあるはずです。


「日本語の学校」 コラム その1 鴨下 信一

2016年10月04日 00時31分43秒 | 朗読・発声
 「日本語の学校」 声に出して読む<言葉の豊かさ> 鴨下 信一 平凡社新書 2009年

 コラム その1 P-55

 台本を作る――アガらないために(1)

 他人の前で朗読する時のいちばんの敵は〔アガる〕ことです。どうしてアガるのか。それは自信がないから。どうして自信がないのか。それは〔準備〕が万全でないから不安になるのです。あなたの準備はどうでしょう?
 朗読の〔台本〕はキチンと出来ていますか、字は読める大きさですか、拡大する必要はありませんか?
 紙はどうでしょう。用紙は必ずしも真っ白でなくてもいいのです。あまり白いと照明が当たってハレーションを起こして、かえって見えにくくなります。少し色がかかっているもの、例えば薄いブルーの紙など試してみてください。
 サイズはどうでしょう。これは台本を置く台がある時と、手に持って朗読する時ではちがいます。前者では大きくてもいいが〔メクる回数が少なくて済みます〕、手に持って読む時はページ数が多くなっても、小さくないと不自由です。
 一行があまり長くなるのは、よくありません。読んでいる時に、眼が上から下へたどってゆくと、顔も同じように動く。これが観客のほうから見ていると、すごくウルサく邪魔なのです。これを防ぐためには、例えばこの本のテキスト部分のように、罫引きしてニ段組にするとよいでしょう。
 ページの終わりのところで、ちょうどうまく文章が終わっていますか。なかなかそううまくはゆかないものです。切りのいいところで、少し余白が出来ても終わっておくか、次のページにこぼれた部分を、前のページに書き写しておく。これをやっておかないと、思わぬトチリの原因になります。トチればとたんに、あなたはアガって収拾がつかなくなるでしょう。
 表紙は、少し厚い紙で作ったほうがいい。表紙をこうしておかないと、手に持って歩く時にピラピラ動く、これがみっともない。みっともないと、あわてる。あわてたら必ずアガります。
 あ、そうだ。紙面いっぱいに字だらけにするのもいけません。余白を(少し多めに)作ったほうがいい。朗読をすると、意外に書き込みをしなければならないことに気づきます。出来れば行間も少し空きがあったほうが便利。
 面倒くさい。といわないこと。基礎的準備をちゃんとしない人ほど、はっきりいって、朗読は下手です。
 そして、題名(タイトル)と作家名を大きく書くこと(これをやらない人が時々いるのは、驚きです)そして最初にはっきり読むこと。作品と作家に対する敬意を忘れるような人は、朗読をする資格がありません。

ビートルズby1966カルテット

2016年10月02日 22時56分53秒 | 身辺雑記
ビートルズ・クラッシックス・コンサートby1966カルテットを聴いてきた。
会場は1,600人収容の大ホール。
前売り券は700枚売れたと言っていた。
2階はまだらだったけど、1階はほぼ満席。
1966は1966年のこと、ビートルズが来日した年。
ビートルズをクラッシク風に演奏する女性4人組。
2バイオリン(ジョン&ポール)チェロ(リンゴ)ピアノ(ジョージ)という編成。
ユニークなのはセットリスト(演奏曲)。
なんと武道館でのライブと同じ曲、MCまで(日本語だけど)再現するこだわり。
真ん中の前から3番目の席だったので、彼女たちの表情はよく見れたけど、音的にはマイナス。
後ろの方でホールの響きと一緒に聴いてみたかった。

今年は来日50周年ということで、思い出したようにビートルズを弾いているのでグッド・タイミングだった。

「つらい時、いつも古典に救われた」 清川 妙

2016年10月01日 00時12分08秒 | 古典
 「つらい時、いつも古典に救われた」 清川 妙 ちくま文庫 2012年

 「坂をくだる輪にはならない」 P-95

 このごろ、思い立って『徒然草』をていねいに読み直している。兼好法師の頭は非常に合理的で知的、筆は的確で歯切れがいい。
 気持ちがだれたとき、マイナスに傾いたとき、どうしようかと迷ったとき、そのページをパラパラとめくってみると、探しものをしていた心に、かならずピタリと寄り添う言葉がみつかる。
 たとえば、この一節など、一生を左右しそうな、おそろしいまでの深さを持っていると思えてならない。”ある者、子を法師になして”にはじまる188段のことばだ。

 (前略)行末久しくあらます事ども心にはかけながら、世にのどかに思ひて、うち怠(おこた)りつつ、まづ、さしあたりたる目の前の事にのみまぎれて月日を送れば、事々(ことごと)なす事なくして、身は老いぬ。終(つひ)に物の上手にもならず。思ひしやうに身をも持たず、悔ゆれども取り返さるる齢(よはひ)ならねば、走りて坂をくだる輪のごとくに衰へゆく。

 ――将来にわたって、こうしたい、こうなりたいというような夢を持っていながら、のんびりかまえ、怠けて、目の前のことに紛れて月日を過ごしていると、なにごとも達成できず、いつか年をとっている。その道のベテランになることもなく、いい暮らしを立てることもできず、ああ、しまったと思っても、もはや遅い。そうなると、まるで坂道を走り転がる輪のように衰えていくばかりなのだ――という意味である。

 なんとも耳が痛い。ズキンと思いあたるものがある。しかも、兼好のこの文章は真っ向から切っ先鋭く迫ってくる。