中学校を卒業した春だったと思う。同級生と二人で、表丹沢を歩いた。通常の縦走コースはヤビツ峠から二の塔、山の塔,行者岳、塔ノ岳を縦走するのだが、これは初心者には無理だ。「ヤビツ峠」という言葉が残っている。したがって距離的にはヤビツ峠から岳ノ台、菩提峠を通り、菩提地区へと下るコースだったと思われる。
時期も中卒直後なので、3月末だったのか。今も鮮明に脳裏に残る映像は、尾根を歩いている時に出会った鹿だ。10mと離れていない残雪の上に立って、我々の方を見ている雄鹿だった。じっとこちらを見て、動かない。私も友も足を止めた。しばらくしてから、鹿はゆっくりと立ち去っていった。この映像は、その後も繰り返し思い出される。そして、常に誇張されず変化のないもので、どちらかというとモノクロ調の絵だ。
しかし、これと同じ映像がもう一つある。この地に引っ越してきた年だった。夕方、家の北側の森の中に、同じように雄鹿を見た。まるで「デジャビュ」のようだった。でも、デジャビュではない。私のところから6~7m離れたところで、丹沢の鹿と同じような目つきで、私の方を見た。鹿は立ち去ろうとせず、しばらく(正確には一瞬かもしれないが)私と見つめ合っていた。そして、ゆっくりと歩きだし森の奥に消えていった。その姿は50年前に丹沢で見た鹿の再来かと。ゆっくり立ち去るとき、前足の膝関節をほぼ直角に曲げ、一瞬止め、前に進む姿は、鹿ならずとも馬が立ち去る時に行う動作だ。この姿は好きだ。わが家のタロ(犬)もよく行う。散歩後のシャンプーをするとき、私がせっけん液を泡立てる動作をすると、決まって、右前足を鹿の動作のように上げて、待っている。「お手」の時もそうだ。
でも、足をあげ一瞬止めてからゆっくり立ち去る姿は、鹿が一番似合うと思う。しかし、鹿にはめったに出会えない。その代わりタロが前足をあげる姿勢を見て、たぶん私の頬はほころんでいる。そして、時々鹿の映像を思い出している。何故ならば、タロをシャンプーする浴室は、鹿がいたところから、最も近い部屋だ。前にタロの実像、後ろに鹿の気配を想像するときがある。
「標高330m」をあらためて意識すると、丹沢登山を思い出す。鹿との出会い以外の場面は、帰り道がもっぱら下りだったので、つらかったという思いが残る。その他の場面は思い出せない。
その時一緒に登った友人と、新宿駅からバスに乗った時、車内でばったり会った。それ以来、40年間、合っていない。
今日は、梅雨寒の一日で、どんよりとした雲り空だったが、雨は降らなかった。妻と私はそれぞれ思い思いの場所の草取りをした。流れの無い川のように、動きのないおだやかな一日だった。こんな時は過去の思い出に浸るにふさわしい日でもあった。
時期も中卒直後なので、3月末だったのか。今も鮮明に脳裏に残る映像は、尾根を歩いている時に出会った鹿だ。10mと離れていない残雪の上に立って、我々の方を見ている雄鹿だった。じっとこちらを見て、動かない。私も友も足を止めた。しばらくしてから、鹿はゆっくりと立ち去っていった。この映像は、その後も繰り返し思い出される。そして、常に誇張されず変化のないもので、どちらかというとモノクロ調の絵だ。
しかし、これと同じ映像がもう一つある。この地に引っ越してきた年だった。夕方、家の北側の森の中に、同じように雄鹿を見た。まるで「デジャビュ」のようだった。でも、デジャビュではない。私のところから6~7m離れたところで、丹沢の鹿と同じような目つきで、私の方を見た。鹿は立ち去ろうとせず、しばらく(正確には一瞬かもしれないが)私と見つめ合っていた。そして、ゆっくりと歩きだし森の奥に消えていった。その姿は50年前に丹沢で見た鹿の再来かと。ゆっくり立ち去るとき、前足の膝関節をほぼ直角に曲げ、一瞬止め、前に進む姿は、鹿ならずとも馬が立ち去る時に行う動作だ。この姿は好きだ。わが家のタロ(犬)もよく行う。散歩後のシャンプーをするとき、私がせっけん液を泡立てる動作をすると、決まって、右前足を鹿の動作のように上げて、待っている。「お手」の時もそうだ。
でも、足をあげ一瞬止めてからゆっくり立ち去る姿は、鹿が一番似合うと思う。しかし、鹿にはめったに出会えない。その代わりタロが前足をあげる姿勢を見て、たぶん私の頬はほころんでいる。そして、時々鹿の映像を思い出している。何故ならば、タロをシャンプーする浴室は、鹿がいたところから、最も近い部屋だ。前にタロの実像、後ろに鹿の気配を想像するときがある。
「標高330m」をあらためて意識すると、丹沢登山を思い出す。鹿との出会い以外の場面は、帰り道がもっぱら下りだったので、つらかったという思いが残る。その他の場面は思い出せない。
その時一緒に登った友人と、新宿駅からバスに乗った時、車内でばったり会った。それ以来、40年間、合っていない。
今日は、梅雨寒の一日で、どんよりとした雲り空だったが、雨は降らなかった。妻と私はそれぞれ思い思いの場所の草取りをした。流れの無い川のように、動きのないおだやかな一日だった。こんな時は過去の思い出に浸るにふさわしい日でもあった。