摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

天香山神社(橿原市南浦町)~畝尾坐健土安神社と共に霊力の山に鎮まる古社

2023年09月23日 | 奈良・大和

[ あまのかぐやまじんじゃ/うねおにますたけはにやすじんじゃ ]

 

この二社は近接して鎮座していて、車での参拝であれば奈良文化財研究所藤原宮跡資料室の駐車場が便利です。往きは、香久山観光トイレ(ここにも駐車場があります)から香具山に向かうルートを取りましたが、少し登りが有り大和盆地の絶景も堪能できます。両社の参拝後は、資料室も見学し、飛鳥から藤原京時代の瓦や土器、木簡などの発掘遺物を拝見しました。

 

香具山。丘のようです

 

【ご祭神】

ご祭神は、櫛真命。この御名前については、一字を補って「櫛真知命」とするのが正しいと考えられています。730年の「大倭国正税帳」には、「久志麻知神」とあり、また「延喜式」神名帳の゛京中坐神三座゛のうちにも「久慈真智命神」があり、゛本社坐大和国十市郡天香山櫛真命神゛の注があります。クシは゛異(ケ)し゛であり、゛奇異な゛、゛霊妙な゛の意味で、マチは占いのあらわれる神聖な場所の意味だと、「日本の神々 大和」で木村芳一氏が書かれています。

 

(天香山神社)参道。歌碑や顕彰の石碑が多く並びます

 

永留久恵氏は、クシマチを亀卜の神と解釈されます。卜甲の裏面に方形の穴を浅く彫り、火を指して、表面に亀裂を生じるように細工した所を「マチ(町)」と言いますが、このうち中央の上段に作られた町を特別に神町、または霊町、あるいは太町と呼びます。また、神町に火をあてる指火木(サシヒギ)を卜串(ウラグシ)と称したことから、クシマチという神名は、この卜串と神町を一緒にした名前だとした上で、永留氏は元来は対馬の卜部の神であったとみられていました。

 

(天香山神社)有名な波波迦の木。平成、令和の大嘗祭でもこの木が宮中三殿へ献進されたたそう

 

なお、「延喜式」神名帳の注記はこの神の元の名を「大麻等乃知神」として、「三大実録」859年にも゛天香山大麻等野知神゛が従五位下から従五位上に昇叙されたと見えています。

 

(天香山神社)二の鳥居

 

【ご由緒】

香久山は、「古事記」「日本書紀」の要所に登場する重要な山です。「古事記」の天照大神の天岩戸籠りの説話では、゛天の香山の真男鹿の肩を内抜きに抜きて、天の香山の天の波波迦を取りて、占合ひまかなはしめて、天の香山の五百津真賢木を根こじにこじて゛と書かれています。一方の「日本書紀」では、神武天皇即位前に天香山の社の埴土を椎根津彦と弟猾に取らせて平瓦などを作って天神地祇を祀った話と、崇神天皇の時期には謀反した阿田媛が香久山の土を取り゛是れ倭国の物実(モノシロ)゛と言って誓約した事が記されています。

 

(天香山神社)拝殿

 

さらに「万葉集」には、舒明天皇、天智天皇(中大兄皇子)、持統天皇らの天皇がこの山を詠んだ歌が残されており、以上の古い記述からすると、香久山は変事であれ慶事であれ国家の重要事に際して歴史の舞台に登場し、古くから神聖な山、霊力のある山として畏れ敬われていたと、先の木村氏は述べられています。

 

(天香山神社)本殿

 

【祭祀氏族】

当社の祭祀にあずかったのは中臣氏だったと考えられています。朝廷の神事と卜占を担当した氏族である中臣氏は、香久山の付近に住まいがあったと推定されていて、木村氏は、中臣氏が山の近くにいたからこそ、香久山のは卜占や祭祀に関係の深い山とされたのかもしれないと推測されます。「尊卑分脈」などでは、櫛真乳魂命は神皇産霊尊の子とされ、中臣氏は神皇産霊の弟津速魂命から出づるとされています。

 

(天香山神社)境内にある天真名井。

 

【式内社比定と畝尾坐健土安神社】

「延喜式」神名帳に載る「天香山坐櫛真命神社 大 月次新嘗」に比定されていますが、当社がもと香久山山頂にあったとして、現在の国常立神社を本来の式内社と考えたり、また当社を式内社の畝尾坐健土安神社に比定する説もあります。

 

(天香山神社)境内

 

「日本書紀」で神武天皇が埴土を取らせた場所については、その「社」を香久山の山頂に鎮座する国常立神社あるいは山腹にある当社天香久山神社とする説があり、またこの二社のいずれかを畝尾坐健土安神社の旧社地とする説もあります。いずれにしても、「日本書紀」の神武天皇即位前紀の最後に、その土を取った場所を゛埴安と曰う゛を明記するので、それが「延喜式」神名帳のいう畝尾坐健土安神社のことだと、木村氏は考えておられました。

 

(畝尾坐健土安神社)入口石標。鳥居は背後の拝殿の前にあります

 

畝尾坐健土安神社は、「延喜式」神名帳の同名社に比定され、「大倭国正税帳」や「新抄格勅符抄」に゛畝尾神゛と記される由緒ある神社で、859年に従五位下から従五位上に昇叙されています。「延喜式」神名帳では大社で、月次祭、新嘗祭にも預かっていました。ご祭神は、健土安比売命。「古事記」で伊邪那美命が火之加具土命神を生んで病み臥せってしまわれた時の屎から出現した神で、「日本書紀」では土神埴山姫とよばれています。

 

(畝尾坐健土安神社)拝殿

 

【香具山】

途中の香具山登山道の入口に、橿原市教育委員会と奈良森林管理事務所による説明掲示が有りました。それによると・・・、香具山は標高152.4メートル。ほとんど丘という雰囲気のこの山は、桜井市の多武峰から北西に延びた尾根が浸食により切り離されたもの。同じく大和三山である畝傍山と耳成山が盆地からそびえる死火山であるのと異なります。

 

(畝尾坐健土安神社)本殿

 

三つの山は古来、有力氏族の祖神など、この地方に住み着いた神々が鎮まる地として神聖視され、その山中や麓に天香山神社、畝火山口坐神社、耳成山口神社などが祀られてきました。そして、藤原京の造営にあたっては、東・西・北の三方にそれぞれ香具山、畝傍山、耳成山が位置する立地が、宮都を営む上での重要な条件とされたと考えられています。

香具山は、「伊予国風土記」逸文に、゛天から降ってきた゛という伝承が残っており、「天の香具山」とも呼ばれます。「万葉集」で「天」という美称が付けられた山は香具山だけで、この山が特別な位置づけを持っていたと考えれれている、ということです。

 

(畝尾坐健土安神社)境内

 

【伝承】

上記のように、有名な大和三山の一つである天香久山について、よく似たお名前の有名な神、天香語山命との関連については、一般には積極的に考えられないようです。他の二つの山が純粋に地名のようなので、同様に考えられてるのでしょうか。

 

(畝尾坐健土安神社)「天香山赤埴聖地」石碑

 

東出雲王国伝承を語る各書は一貫して、紀元前2世紀末から同3世紀初頭に丹後から大和に進出したアマ氏(後の海部氏)の村雲命が、葛城の葛木坐火雷神社笛吹神社)を祀った時に大和盆地のこの山にも父である香語山命を祀ったと主張します。斎木雲州氏や富士林雅樹氏は、当時は大和盆地の中央部は沼地で人が住めなくて、香具山は島のようだったとも書かれます。この話を前提とすると、香久山は中臣氏が近くに住んでいた頃から神聖な山になって行ったのではなく、元々アマ(海部)氏が信仰した山を、後に卜部だった中臣氏が手に入れたように見えます。ナカツオミにゆかりのある目原坐神社も同じ橿原市にあります。

 

道中で臨めた耳成山

 

ただ、上記の出雲伝承には疑問があります。葛城の火雷神社から大和三山を望むと(写真は下)、畝傍山や耳成山はすぐにわかりますが、天香久山は高さや形態が分かりにくくすぐには判別できません。なぜ、畝傍山や耳成山には祀らなかったのでしょうか。先着がいたのでしょうか。また、唐古・鍵遺跡の発掘成果によると、紀元前4世紀の大型建物跡と柱が発掘されています。さらに、当然ながら、この辺りにも橿原遺跡や坪井遺跡などの縄文時代の遺跡も発掘されてるようです。或いは、出雲伝承が「沼地」だというのは、先住民の敵がいた事の隠喩で、攻め入った事を隠しているのでしょうか。伝承の話は古代を通したストーリー性があり興味深いですが、やはり疑問点も存在します。

 

火雷神社近くから眺めた大和三山。一番左が耳成山。真ん中が畝傍山。そしてその右奥が天香久山と思います

 

(参考文献:香具山登山道説明掲示、橿原考古学研究所附属博物館常設展示図録、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 大和」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、前田豊「徐福と日本神話の神々」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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