摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

長尾神社(葛城市長尾)~「海部氏勘注系図」に載る倭宿祢命の妃神

2024年10月19日 | 奈良・大和

[ ながおじんじゃ ]

 

富田林市の美具久留御魂神社の前から東に走り、あまり勾配のない山道~かつての竹内街道~を通り、二上山の雌岳の南側の竹内峠を越えると間もなく到着しました。当社の鎮座する葛城地域と河内地域との近さを改めて実感しました。古代竹内街道に境内を接して東面する神社です。秋祭りの日で、丁度参拝している時にだんじり(地車)が前を通るという良いタイミングもありました。

 

線路近くの一の鳥居。「馬場先」と呼ばれる参道は流鏑馬がされてた名残だそう

 

【ご祭神・ご由緒】

「日本の神々 大和」では、現在のご祭神が、水光(イヒカ)姫、白雲別命という吉野連の祖神となる二柱となっていますが、現在はその前に天照大神と豊受大神が大きな文字で記載され、元のご祭神は小さな文字になっています。1302年の「放光寺古今縁起」という古い記録に伊勢の皇祖神がご祭神であると書かれているようですが、やはりこの神社は先に記した二柱のご祭神で捉えたいところです。ただし、「延喜式」神名帳では一座となっているようで、「日本の神々」で関口靖之氏は、不明というしかない、と述べられています。

「イヒカ」は記紀両方の、神武天皇の吉野の場面で登場します。「井の中」から出てくる尾っぽを持った国つ神で、吉野首らの祖だと説明されています。「古事記」が「井氷鹿」で、「書紀」が「井光」の表記です。

 

参道からの二上山

 

【「式内社調査報告」によるご祭神説明】

ご祭神に関して先の関口氏は、「式内社調査報告」に載る当時の当社宮司・吉川正倫氏の説明を引用されています。社伝として、1713年の「長尾神社略記」があり、興味深い記述を紹介されたものです。この書は、゛長尾社祝部吉野河盛利の需に応じて゛吉田家の門人「今出河如鶏」の編したものです。そこでは、社家吉川氏を吉野川氏と称して吉野連の子孫とし、「新撰姓氏録」及び記紀所伝の、井光女、水光姫を祭神としています。この略記では゛大字竹之内の三角磐に水光姫が白蛇となって降臨された事゛゛夢の訓により、長尾の地に御蔭井を造り、この白蛇をお遷しして、其上に磐石を以て覆った事゛等が記されているようです。

 

境内

 

吉川氏によれば、現に大字竹之内の天神降塚附近に三角磐があったという伝承があり、竹内街道北側の天神降塚も、天神が降りた所と伝えられており、「三ツ石」の小字名がありました。享保九(1724)年の明細帳に御宮゛郷内竹之内村領三角岩亦の名は降臨石とも申当社旧跡御座候゛゛神殿之艮に御陰井御座候゛ともあり、社伝を裏付けている、との事です。

拝殿向かって右側にその御陰井跡があり、水光姫が応神天皇の御世に降臨され、子孫の加弥比加尼(かみひかね)に命じて当地に祀らせた云々が書かれた掲示がされています。

 

拝殿。昭和9年改築ですが、神紋入り屋根瓦など一部は1789年築造時のものだそう

 

【祭祀氏族・神階・幣帛等】

関口氏は、祭祀氏族については明らかでないとしつつ、「大日本地名辞書」では゛長尾直の祖神也゛とある事を紹介されます。これは、壬申の乱で「長尾直真墨」が河内から攻めて来た近江方の軍勢と龍田付近で戦ったと有る事によるだろうということです。また、「式内社調査報告」での吉川氏は、長尾直の系譜は不詳であるが、當麻路一帯を代表する地名として長尾があり、その土地の豪族であった長尾氏の氏神が長尾神社であったことを示すものとも考えられる、と述べられています。

「日本古代氏族事典」では、長尾氏は倭漢氏系氏族で、氏名は当社鎮座地の地名によるとあります。「新撰姓氏録」逸文に、応神朝に渡来した阿智使主の孫の゛山木直者。是…長尾忌寸…等廿五姓之祖也゛、同じく゛志怒直之第三子。阿良直。是…長尾忌寸等7姓之祖也゛と見え、長尾氏に二流があったとされます。

 

本殿。二殿並列型。1793年改築

 

一方吉野氏は、同じく「姓氏録」での大和国神別に゛吉野連。加弥比加尼之後也゛と有るのが関係する吉野氏と思われます。旧姓は首で、天武天皇十二(683)年に連の姓を賜っています。同書には、゛井光女有り、(神武)天皇召して之を問う。汝は誰人。答えて曰く、妾は、是れ天より降りて来る白雲別神の女、名を豊御富という、天皇即ち水光姫と名づけ、今に吉野連の祀るところの水光神が是れである゛と記され、記紀に登場したのが井光姫だったと説明しています。長尾氏と吉野氏の関係はよく分からないですね。

 

本殿。1976年に銅板葺きに。檜皮葺職人の不足のためだそう

 

「三代実録」859年の条に従五位上に授かったことが書かれています。社伝では、神階はその後も上がり続け、1281年に正二位、江戸時代には正一位に昇りつめたようです。「延喜式」神名帳では葛下郡に記載され、大社、月次、新嘗、となっています。

 

境内北側の竹内街道

 

【竹内街道と横大路】

当社は、推古天皇紀に、゛難波より京(みやこ)に至るまでに大道を置く゛とある「大道」に比定される、竹内街道と横大路が繋がるという交通の要衝に鎮座していました。竹内街道は、竹内峠を越え、磯長谷古墳群、古市古墳群、そして百舌鳥古墳群という陵墓の集中する地域を貫いて、現在の阪堺電軌阪堺線の大小路駅あたりまで続く道です。江戸時代に至っても、堺で水揚げされた魚を大和で売り、その帰りは三輪でそうめんを仕入れて堺で売るというような「経済の道」として栄えていたようです。

 

絵馬殿

 

横大路は、当社の直ぐ北、近鉄南大阪線の磐城駅を基点に今もほぼまっすぐに延びて、JR万葉まほろば線の桜井駅まで続きます。さらに当社から南に向かえば高野街道が続くなど様々な街道が交わる交通の要衝だということで、当社は古くから旅の安全を祈願する旅人に信仰されてきたのです。また、大和に住んでいたという巨大な大蛇の頭が三輪明神大神神社で、尾が当社長尾神社だという伝説がよく語られます。

 

もっとも古い安永元年(1779年)の絵馬。

 

【「海部氏勘注系図」に載る水光姫と伝承】

当社やご祭神に関心を寄せるのは、やはり「海部氏勘注系図」に登場する神だからです。その書には、海部氏として天火明命から三代にあたる倭宿祢命(亦名天御蔭命)が大和にうつる時、白雲別神の女、豊水富命を娶ったとされます。亦の名、井比鹿であるとも記されます。「古代海部氏の系図」で金久与市氏は、倭宿祢命は大和と縁が深く、丹波から大和に入ったと考えられていました。当社鎮座地に井光姫の伝承がある事からすると、倭宿祢命も葛城におられたのでしょうか。

 

二の鳥居前の「なで蛙」の石像。こちらは母子で反対側は父蛙

 

大元出版の東出雲伝承では、丹後(丹波)から大和に入った海部氏(当時はアマ氏)の御方は、倭宿祢命の一代前の御方だったと説明されます。富士林雅樹氏は、倭宿祢命は大和で豊水富を娶り、この姫は東出雲王家の富氏の出身だとの伝えを書かれています。神社の「略記」に姫が白蛇になって降臨したと書かれたのは、出雲から輿入れされた事の喩えだったのでしょうか。ただ、出雲伝承では吉野の話はほとんど出て来ず、吉野氏のことも特に語られません。

出雲から摂津三島を経由して大和に移住した出雲系の登美氏(富氏の分家)が、同時期に丹後から大和に入ったアマ氏(のち、海部氏、尾張氏)と、記紀説話の原型となるいわゆる大和王権系譜のごく始まりの時期に、積極的に関係を築こうとした事が偲ばれます。白蛇の降臨や大蛇の伝説など、出雲伝承流に言えば、やはり当社も出雲系の神社である感じがします。

 

だんじり

 

(参考文献:長尾神社公式HP、奈良県「いかすなら」HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 大和」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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