[ たぶとじんじゃ/ただじんじゃ ]
阪急能勢電鉄の多田駅から、大通り沿いに扇状地の緩やかな昇り坂を上っていき、住宅街を歩いた先に鎮座しています。現在は宅地や建物が多く建っているのでそうでもないですが、大阪方面の眺望が望めそうな高台に、社叢となる多太の杜を背後にして鎮座していました。川西市は大阪・神戸通勤圏のベッドタウンとして、自然に恵まれた地として注目されていますが、電車だとなかなかに奥地になります。しかし、当社には興味深い「別伝」が有る事に興味をもち、参拝をさせていただきました。
鳥居を抜けた参道
【ご祭神・ご由緒】
ご祭神は、日本武尊。そして、配祇神として、大鷦鷯尊 伊弉諾尊 伊弉冉尊を祀るとされています。タダ神社というと同じく川西市にある、源満仲にゆかりの多田神社が有名ですが、「日本の神々 摂津」で落合重信氏は、当社多太神社の方が「延喜式」式内小社であり由緒は古い、と書かれています。
落合氏による「別伝」では、往昔、大田田根子命が崇神天皇の勅を奉じて奈良県の大神神社の神主になり、その子孫の神人神直(みわのあたい)氏がこの地に留まり、太祖大国主命と大田田根子を奉斎した事に始まるということのようです。所在地が平野であることから平野明神とも呼ばれ、源満仲が京都の平野神社から勧請したとの伝えもありますが、落合氏によればそれでは時代が逆であり、そして、ここにオオタタネコの名が見える事は注目されてよいと述べておられます。
拝殿
【祭祀氏族・神階・幣帛等】
「和名抄」に河辺郡大神(オオムチ)郷があり、「新撰姓氏録」の摂津神別に、゛神人(ミワヒト)。大国主命五世孫大田田根子の後なり゛とあります。この地方に、和泉国陶邑を本貫とする大田田根子の一族が居住していたことは、まずまちがいないと、落合氏は考えられます。
その゛神人゛に関して、「日本古代氏族事典」では、神社に仕える者の称で、「神人部」がその資養(供養)を負担する部民とあります。また、「新撰姓氏録」では上記した以外に、河内国神別に゛神人。御手代首同祖。阿比良命之後也゛や、未定雑姓、和泉国に゛神人。高麗国人許利都之後也゛などとあり、出自を異にする神人氏が各地に存在していて、神人部もそれらの地域に分布したと思われます。
また同書によれば、同じく「新撰姓氏録」の和泉国神別には゛神直。同神(神魂命)五世孫。生玉兄日子命之後也゛とあり、神の氏名はのちの和泉国大鳥郡上神郷(現在の大阪府堺市南区)の地名に因むようですが、和泉国には氏人の名は見えないようです。
拝殿奥に見えるのが覆屋で、本殿はその中に拝見できます
【多田神社のこと】
川西市多田院の多田神社については、こちらは前身としてまず地名にもある多田院がありました。創建したのが源満仲で970年のことです。「多田院縁起」によると、満仲が住吉明神に参籠したときの霊夢によって、多田地方に注目したとあります。自身が摂津守となり、その子頼光も摂津守に任ぜられたことから、勢力を蓄えるのに格好の場所と考えたからだろうと、先の落合氏は考えておられました。満仲は997年に亡くなりましたが、死後、多田院の中に廟所が作られました。つまりは寺内のお墓です。
それがいつから多田神社に発展するか、その時期は明らかではないようです。その後室町時代になり、多田源氏が足利氏の祖家にあたることから、足利尊氏が多田院を早くから崇敬しました。そして、尊氏が亡くなると、その遺骨の一部がこの祖廟に納められ、満仲の傍らに埋められます。足利氏は代々これにならうことになりますが、このように満仲が神格化され、多田院が神社への道を歩むのは、たぶんこの頃からではないか、と落合氏は考えておられます。こうしてみても、神社としては多太神社の方が相当に古いという事です。
本殿。装飾はきれいに塗られていました
【鎮座地、地名】
当地の北西にある河辺郡猪名川町銀山は、東大寺の大仏鋳造のために銅を献じたといわれる多田銀山があり、銅、銀の産地として後世まで栄えていました。また、神社の地より南西4キロほどの大字満願寺から、文政年間(1818~1831年)に銅鐸が出土しています。「日本の神々」の編者であられる谷川健一氏は、大田田根子の「タタ」を、当地にあった多田銀山の存在と考えあわせてタタラを意味する語と見ておられたそうですが、落合氏はそれは索強付会の感がないでもないとしつつ、茨木市の東奈良遺跡の銅鐸鋳造地では多田の銅が使われていたという谷川氏の説は考慮に値するとされていました。
本殿向かって右、北摂七福神・福禄寿
当社のある川西市から猪名川町にかけての地域は、多田源氏が居住していたから多田と書かれると思われがちですが、落合氏によればそれは逆で、地名が先のようです。しかもその地名は、大田田根子を祖神とする一族の居住に由来し、オオタタネコの「大田」が「多田」となり、後世タダと呼ばれるようになったと、落合氏は考えておられました。「日本の神々 摂津」では「多太」に「ただ」と仮名が振られていますが、現在、冒頭のかな名に記載した通り「たぶと」と読まれているのは、有名な「多田神社」と区別の為に地元で「たぶと」読みをされているようです。
本殿向かって左の境内社。稲荷神社と、春日社・皇大神宮・八幡社
【社殿、境内】
本殿は正面柱間2.4mの社殿ですが、鉄骨の覆屋でしっかり守られ、その中に本殿が鎮座しています。建築年代は内陣廚子内小箱の墨書により元禄6年(1693年)の造営であることが確認されています。租物や蟇股なども時代の特徴をよく表しているようですが、背面の蟇股や脇障子の欄間などには桃山風が認められます。記録によると天正6年(1578年)にも再建されてるので、これはその際の遺材だろうと考えられています。
磐座が祀られていました
【伝承】
東出雲王国伝承が、旧出雲王国王家の血筋を受け継いだとする大田田根子の後裔が、同じく出雲伝承がその出雲王国の領地だったという摂津三島の西隣り(というより、摂津三島から播磨まで領地だったらしい)の地域に住んでいたとする「別伝」は、出雲伝承を前提とすれば自然なことのように見えます。大田田根子の子孫の時代ということは、敵対した九州東征勢力が摂津三島にも進出している可能性が考えられ、少し北の山側の奥まったところに落ち着いたのでしょうか。
出雲伝承ではこの多太神社や関係する伝承は登場していないと記憶しています。後から創建された多田神社と区別するために、わざわざタブトと変えて呼んでいるようですが、源満仲より有名な大国主命や出雲王国とつながる由緒譚がより広く知られれば、多太神社はもっと注目されるのではないかと期待したくなります。「多田」の元は「大田」だったとする説からしても、タダと読むべきなんだろうと思います。
境内
(参考文献:兵庫県神社庁HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)