摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

宗我坐宗我都比古神社(そがのそがつひこじんじゃ:橿原市曾我町)~蘇我氏の出自を語る「入鹿宮」、そして飛鳥伝承の大和と出雲

2022年09月03日 | 奈良・大和

 

飛鳥時代の超有名な豪族、蘇我氏ゆかりの神社で、そばには曽我川が流れ、住所にあるとおり地名にも痕跡が現われています。しかし、蘇我稲目、馬子、蝦夷と飛鳥時代に権勢を奮い、乙巳の変で殺害された蘇我入鹿にちなんで「入鹿宮」との呼ばれる当社は、その蘇我氏が活躍した舞台であるはずの明日香村とは離れた位置にあり、また現在は境内も結構こじんまりしています。蘇我氏に関わる定説や伝承、そして当神社の由来などに思いをめぐらしてみたいと思い、参拝させていただきました。

 

「真菅よし 宗我の河原に鳴く千鳥 間無しわが背子 わが戀(こ)ふらくは」柿本人麻呂の歌です

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は、曾我都比古と曾我都比売で、二体の木造神像が御神体になっています。「大和志」では当社について、曾我村の北に在り、今入鹿宮と称する、と書かれているようですが、今も地元では「入鹿宮」と呼ばれているようです(なお、当社とは別に「入鹿神社」が小綱町に鎮座)。

創祇について「五郡神社記」は、推古天皇の御代に蘇我馬子が武内宿禰と石川宿禰を祀って神殿を蘇我村に造営したと記します。一方、社伝では、持統天皇が蘇我一門の滅亡をあわれんで、蘇我倉山田石川麻呂の次男、徳永内供に紀氏を継がせ、内供の子永末に祖神を奉斎するために土地を賜い、社務と耕作を行わせたのに始まるとしています。ここでは、ご祭神は蘇我氏の遠祖、彦太忍信命と石川宿禰とされています。

 

・境内

 

【神階・幣帛等】

730年の「大倭国正税帳」で、大和国で神戸を有した神社は三十九社あるとしていますが、806年の牒(「新抄格勅符抄」所収)に宗我神三戸と載る当社が、奈良時代の三十九社に含まれる可能性は極めて高いと、「日本の神々 大和」で木村芳一氏が述べられています。そのくらい古くから特記される神社だったのです。神階は859年に従五位下から従五位上、さらに正五位下まで昇叙されるのが見えます。「延喜式」神名帳では「宗我坐宗我都比古神社二座」として載ります。

 

・拝殿

 

【祭祀氏族】

今や乙巳の変(この結果、大化の改新につながる)の被害者として誰もが知る「蘇我氏」ですが、武内宿禰後裔氏族の一つで、蘇我石川宿禰を始祖とすることは確かとされています。しかし、その本拠地については以下の三説があり、何れも有力だと「日本古代氏族事典」に列記されています。

  • 大和国高市郡蘇我(つまり当地):
    「紀氏家牒」の、゛蘇我石河宿禰、大倭国高市県蘇我里に家。故に名を蘇我石河宿禰と云う゛との記述より

  • 河内国石川・錦部郡(大阪府富田林市を中心とした石川中流域):
    「三代実録」に、石川朝臣木村の改姓の上言として゛元慶元年の石川朝臣木村の言葉に、始祖大臣武内宿禰男宗我石川、河内国石川別業において生まれる。石川を以て名となす。宗我大家を賜って居と為した。因りに蘇我宿禰姓を賜る゛との記述が有る事により

  • 大和国葛上・葛下郡(奈良県御所・大和高田市、北葛城郡の過半部):
    「日本書紀」の推古天皇三十二年に、蘇我馬子が天皇に対して、葛城県はもと臣が本居なので、その割譲を求めたと記されることにより

蘇我氏は最終的に飛鳥の豊浦地域を拠点としたと考えられますが、上記のいずれからなのか、或いはどのような順序で移って行ったのかが確定できないという状況ではないでしょうか。先の木村氏は、「日本の神々」執筆当時の一般論として、蘇我氏の宗家は当社の地を本拠として勢力を培ったと推定されると述べ、創祇時期がその宗家滅亡の前か後かは不明だが、当社が蘇我氏に関わる神社である可能性は高いと考えられていました。

 

・中門と垣内の本殿

・本殿。千鳥破風付の流造

 

【越前三国国造家の蘇我臣】

「先代旧事本紀」国造本紀には、越前地域の三国国造として、゛志賀高穴穂朝御世、宗我(蘇我)臣祖彦太忍信命四世孫若長足尼定賜国造゛とありますが、「福井県史」では、これについて疑問を提起しています。「県史」は信頼すべき古記として「越中石黒系図」を参照し、それによると、蘇我石川宿禰に対して分家となる若子宿禰(他の分家は、羽田八代宿禰、葛城長江襲津彦らも並ぶ)の子が、若長足尼となっています。この蘇我臣若長が三国国造だと「旧事本紀」は言うのです。越前国にも蘇我氏系がいたという事になります。

しかし、゛志賀高穴穂朝御世゛つまり成務天皇の時代に任命というのが、あまりに時代をさかのぼると、「県史」は苦言を呈しています。また、゛この系図で注目すべき点は、三国国造・伊弥頭国造(射水臣祖)・利波臣・江沼臣・坂名井臣など北陸の豪族が、同系として結びつけられていることであり、あたかも北陸の諸豪族が同族連合を形成しているかのようである゛と、この地域の豪族が蘇我氏系の同族連合と見える事に違和感を感じられてるように取れます。結局、三国国造に対する「県史」の結論としては、三国国造はやはり三国氏で、その成立はおそらくは継体の崩後、六世紀の中ごろではなかろうか、とまとめています。三国氏は、「日本書紀」で継体天皇妃の三尾君堅楲の女倭媛所生の椀子皇子が゛是三国君之先也゛とある越前国坂井郡三国の豪族です。ちなみに、三国神社には継体天皇が祀られています。

 

・裏からも覗えます

 

【伝承の語る蘇我氏】

東出雲王国の伝承を語る斎木雲州氏は、「出雲と蘇我王国」や「飛鳥文化と宗教争乱(上宮太子と法隆寺)」で、上記のような学説に対する反論ともいえる解説をされています。ただ、それぞれで細かいところが異なるので、新しい後者の話を中心に要点だけまとめたいと思います。

まず、出雲伝承の一貫した主張として、武内宿禰はいわゆる邪馬台国の時代に精力的に活動した人だと説明(シウエツが誤記されたそうです・・・)されます。そうすると、「越中石黒系図」で、成務帝の時期に蘇我臣若長が現われるのはおかしくなさそうです。そして、確かに北陸には蘇我家の親族が多く、連合していたと説明されてます。そこに入っていって支配していたのがオオド王らしいです(継体天皇。経緯は大元出版本でご確認ください)。王がまだ地方王の時代に、地元北陸の緑色凝灰岩や出雲の碧玉などを大和の当社鎮座地近辺に送って加工するという事業を始めたそうです。その「三国の蘇我氏」の影響で、曽我の名がこの地に付いたということです。発掘されたその曽我遺跡は、5世紀後半から6世紀前半までの期間に営まれた大規模な玉造りの集落だと判明しています。

 

・八大夫稲荷神社の鳥居

 

一方、蘇我石川宿禰の後裔は河内国の石川流域が基盤であり、これが「記紀の蘇我氏」にあたると出雲伝承は言います。そして、元は同じだが飛鳥時代の頃には「三国の蘇我氏」とは250年も分かれていたと説明します。その「記紀の蘇我氏」が、河内から移住して橿原市石川町や明日香村豊浦に住んでいたという事のようです。斎木氏はその「記紀の蘇我氏」について、確かに一時勢力は強かったし、中大兄皇子や中臣鎌足による受難でその勢力は弱体化したものの、最終的に滅亡まではしていないと主張します。だとすると、高槻市で墓誌が出土した石川年足まで「記紀の蘇我氏」はつながっていたかも、と思いたいですが、そういう話は出雲伝承では語られていませんでした。

以上の伝承を前提とすると、当社が「入鹿宮」と呼ばれるのは、記紀の内容が一般人に普及して以降、ソガ繋がりで有名人と関連付けられたのではないかと、個人的に想像しています。そう考えると、(テレビでお見かけした)豊浦向原寺のご住職が、地域の小学生たちに囲まれて見せるにこやかな笑顔もなんとなく個人的には合点がいくのですが・・・なお、当社は金日大王が創建したと、斎木氏は「飛鳥文化と宗教争乱」に書かれていました。

 

・両脇の境内社は、左が戎神社、右が八坂神社

 

【伝承の語る飛鳥時代】

斎木氏はその本で、「日本書紀」の飛鳥時代について゛(親族同志が争う様が)ウサン臭く、読む気がしなかった゛と書かれています。その本を書く際にも、書紀とあまりに違うので、読者には読みにくいと思われてどう書くか迷ったが、(伝承の伝える)史実どおりに書くことにしたと、胸の内を語っておられます。切なる思いと取るか、それまで既にいくつかの伝承本(「出雲の大和のあけぼの」も)を出されているのに、改まってそう思うかしら?と取るか、少し悩ましいですが、伝承を異説として楽しみたいと思います。確かな古典であっても定説と違う疑わしい記述は対象外にしてしまうか、或いはそのような伝承の話であっても一旦有りとして考えてみるのも楽しいです。学者さんはそうはいかないのでしょうね。

 

【出雲岡田山1号墳の゛額田部゛銘のことなど】

蛇足になりますが、飛鳥時代の出雲伝承は、大和から赴任させられたり逃れて来た要人から聞いた話を元にしていると説明されています。その一人として、いわゆる聖徳太子と貝鮹皇女の間に生まれた(と伝承が主張する)財王が語られます。斎木氏は7世紀前半に亡くなった財王の古墳が松江市の岡田山1号墳であり、埋葬品の銀象嵌円頭太刀に「額田部臣」銘が有った事でそれが示されたと説明します。祖母の推古大王が皇后の頃、添下郡額田郷の領地を持っていて「額田部」と呼ばれており、それが母の貝鮹皇女を介して財王に引き継がれていたそうです。

 

・拝殿前の石灯篭の一基。「蘇我大明神」と刻まれます

 

これに対し、今年、橿原考古学研究所附属博物館で開催された特別展「八雲立つ出雲の至宝」展(荒神谷や加茂岩倉の青銅器と再会できました)で展示されていたその太刀の説明では、岡田山1号墳は6世紀後葉の築造というのが定説のようであり、その頃だとまだ大王でなかった゛額田部皇女に仕えた人物が被葬者゛と説明されていました。つまり、現時点は伝承の主張は勇み足のよう、という理解になります。ただ、昭和62年の島根県の調査報告書では、定説と共に勝部昭氏の6世紀末から7世紀初頭築造という説も併記されています。

最新科学による調査結果も技術の革新により変動していく可能性がありますが、一定のルールに則って(則ってるはず)専門家が切磋琢磨して蓄積してきた現時点の調査結果・見解は、人智を尽くした尊重するべき公知情報だと思いますので、そういった先行文献情報と伝承との対比は可能な限りしていただくのが、読み手にとっては有難いです。専門的データ類や多々ある諸説というのが、煩雑なのが悩ましいところなのですが。

 

・「出雲と蘇我王国」に載っていた参道の「蘇我大神」石燈籠。反対側にも一基あります

 

(参考文献:「福井県史」Webサイト、雑誌「歴史人」2022年4月号「古代史の謎」、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 大和」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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