『マルチチュードの文法』 - 現代的な生活形式を分析するために
パオロ・ヴィルノ著を読んで
現代人の存在のあり方を分析するために、
国家が交代した公的領域にあらわれた
<マルチチュード=多数的なもの>という言葉が語られている。
「私」であると同時に、「ひと」としての個体が、
<general intellect>社会的知性により、
多数的なまとまりをもつことを
マルチチュードとしての社会的存在が語られる。
反復不可能な単一性である「私」が帰属する、
直接的な家族、地域、仕事などとの関係が、
間接化して、代替可能になるほどに、
「私」は、引きこもり、親しさをもとめて解放される場を求める。
匿名的な普遍性でもある「ひと」として
間接的なマスメディア、ネットメディアにより関わることで、
多数的な世間話と好奇心を増幅させる。
このマルチチュードという言葉を使う状況は
1970年代の著者のイタリアと2000年を超えた日本では違う。
しがらみの少ない社会システム論のイメージ図に載せてみると、
上図のようになる。
「ひと」と「私」の両極のバランスとして個体がある。
生存することが容易になれば
類としての生物的基底の感覚よりも、
<general intellect>一般的知性による多数性のなかでの、
世間話、好奇心へと向かう。
それは、さらに一般的知性を拡大し、社会的なシステムを拡大する。
社会システム論での個人は、
社会の一部としての個体、
つまり”神の・国王の・国家の”一部としての個体から、
ルネッサンス以後すこしづつ展開した近代的個人、
そして、指し示しによる自己組織的個人という各段階を踏む。
マルチチュードのメディアは、社会システム上の①のレベルにまず現れる。
そこでのコミュニケーションは、
古代では語りと儀式、近代では文字・活字、
そして、現代での音像・画像、そして映像、
そして今後は気温・湿度・化学物質など
①、②、③のレベルをすべてが動員される方向にある。
現代の商業空間・エンターテイメント空間では、
視覚・聴覚ばかりではなく、臭覚・触覚としての
空調・香りのコントロールが日常的である。
放送やネット上での画像・映像・音像の精度を上げれば、
視覚・聴覚は、味覚まで連動することになる。
多様な紙質、高度化した印刷術は、
グラビア紙面での人間の視力を超えた視覚、
日常の気分を支える触覚など、効果は検証されている。
マルチチュードという概念は、
メディアが個人の意識を超えたとき、
一般的知性という次元を超えていたのではないか?
20世紀の殺戮も、近代的理性の結果ではなく、
メディアが可能にしたマルチチュードの影。
これは、周辺的でも、役立たずでもない、現代人の本性なのだ。
その多数性が社会の中で場をもてなければ、テロとなりうるし、
個人に現れる子殺し・親殺しもまた、社会的には多数性を帯びてくる。
ある意味では、少子化も族としての自殺としての多数性の結果だろう。
追記)近代的個人が崩壊したとか、間主観性とか、共通の社会意識とか、
気軽に書いてきたので、
多数的であることの実体を少し整理してみた。
マルチチュードでの”世間話”、”好奇心”が社会を開いてゆく役割は、ある意味で、ルーマンの芸術に託する役割に繋がる。
『社会の芸術』二クラス・ルーマン
『社会システム理論 上』ニコラス・ルーマン
『社会システム理論 下』ニコラス・ルーマン
パオロ・ヴィルノ著を読んで
現代人の存在のあり方を分析するために、
国家が交代した公的領域にあらわれた
<マルチチュード=多数的なもの>という言葉が語られている。
「私」であると同時に、「ひと」としての個体が、
<general intellect>社会的知性により、
多数的なまとまりをもつことを
マルチチュードとしての社会的存在が語られる。
反復不可能な単一性である「私」が帰属する、
直接的な家族、地域、仕事などとの関係が、
間接化して、代替可能になるほどに、
「私」は、引きこもり、親しさをもとめて解放される場を求める。
匿名的な普遍性でもある「ひと」として
間接的なマスメディア、ネットメディアにより関わることで、
多数的な世間話と好奇心を増幅させる。
このマルチチュードという言葉を使う状況は
1970年代の著者のイタリアと2000年を超えた日本では違う。
しがらみの少ない社会システム論のイメージ図に載せてみると、
上図のようになる。
「ひと」と「私」の両極のバランスとして個体がある。
生存することが容易になれば
類としての生物的基底の感覚よりも、
<general intellect>一般的知性による多数性のなかでの、
世間話、好奇心へと向かう。
それは、さらに一般的知性を拡大し、社会的なシステムを拡大する。
社会システム論での個人は、
社会の一部としての個体、
つまり”神の・国王の・国家の”一部としての個体から、
ルネッサンス以後すこしづつ展開した近代的個人、
そして、指し示しによる自己組織的個人という各段階を踏む。
マルチチュードのメディアは、社会システム上の①のレベルにまず現れる。
そこでのコミュニケーションは、
古代では語りと儀式、近代では文字・活字、
そして、現代での音像・画像、そして映像、
そして今後は気温・湿度・化学物質など
①、②、③のレベルをすべてが動員される方向にある。
現代の商業空間・エンターテイメント空間では、
視覚・聴覚ばかりではなく、臭覚・触覚としての
空調・香りのコントロールが日常的である。
放送やネット上での画像・映像・音像の精度を上げれば、
視覚・聴覚は、味覚まで連動することになる。
多様な紙質、高度化した印刷術は、
グラビア紙面での人間の視力を超えた視覚、
日常の気分を支える触覚など、効果は検証されている。
マルチチュードという概念は、
メディアが個人の意識を超えたとき、
一般的知性という次元を超えていたのではないか?
20世紀の殺戮も、近代的理性の結果ではなく、
メディアが可能にしたマルチチュードの影。
これは、周辺的でも、役立たずでもない、現代人の本性なのだ。
その多数性が社会の中で場をもてなければ、テロとなりうるし、
個人に現れる子殺し・親殺しもまた、社会的には多数性を帯びてくる。
ある意味では、少子化も族としての自殺としての多数性の結果だろう。
追記)近代的個人が崩壊したとか、間主観性とか、共通の社会意識とか、
気軽に書いてきたので、
多数的であることの実体を少し整理してみた。
マルチチュードでの”世間話”、”好奇心”が社会を開いてゆく役割は、ある意味で、ルーマンの芸術に託する役割に繋がる。
『社会の芸術』二クラス・ルーマン
『社会システム理論 上』ニコラス・ルーマン
『社会システム理論 下』ニコラス・ルーマン
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