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国政は、四権分立の世紀ではないのか?

2012-03-20 07:05:44 | 暮らし・街・環境

手の届かない国政を語る暇もないのだが、コトバによる語りが継時的(リニア)に続く国会討論・委員会の進行自体が、利害を裏腹に心情で語り合うのが国政・政治なのだと思わざるを得ない。 変革が進んでいる企業や学校では図象や写真・映像などを参照しながら、電子黒板で、討議を見える化している。国会や行政議会はどうなのだろう。議員のメディア・リテラシーを補うのが秘書に役割であり、コミュニケーション・ファシリテーションなどの能力を活用するためにも秘書が必要で、経費も生きるのではないか? 政治資金集めと集票が政治家と秘書の至上の役割で、公開されるマニフェストとか政策とかは建前のカード。東日本支援、原発対策もまた、基本的な議員数・行政経費・年金・天下り人事・事業仕分けなどを先送りするネタに過ぎないのでは?政権取りゲームである政治屋行動と、対立項をスキャンダルにするマスコミののネタで、その場、その部屋に入れない国民には非公開とは、空っぽのマジックボックスではないのだろうか?(いやいや利権バーターの場所?)

そうじゃないというなら、いっそ、自然・科学、司法、行政、政治と、四権だと考えたらどうだろう?自然とは、自然の循環、他の生物と共存を続けられる循環環境指標。科学とは、センサー集計から調査活動により、マクロで事実を記録し・集計・分析・検討できる手がかり。そして、政治は、過去から現状を理解し、未来への理念によって、司法・行政への指標を提示すること。記録がなければ司法も裁けない。ない記録を作り出したら司法は崩壊する。利害関係が錯綜し絶対の真理がない相対的な世界では、効果計測・比較なくして、行政評価も合理化も進まないし、経費削減もできない。

変えなければならないのは、根拠なき政治言動、いや利害を合理化するための屁理屈を防ぐために、自然・科学の成果を生かす仕組み。
経済会議・科学会議・・・・が、政治に従属していることが問題。人間の非合理性はすでに社会科学から、理解されている。記憶さえ作り替えてしまうのが人間の性なのだから。
数値ばかりが科学だとの信仰が、通貨と交換経済活動を万能にして、自由主義を金融資本心情市場社会へと導いた。しかし、センサー・通信・情報技術の発展・普及が社会科学の活用に活かされる時代にはいっているではないか?

すでに政治家行動は、グローバルな情報消費市場の主流ではなく、マスコミのスキャンダルネタとして、芸能・スポーツと同列になって、スポーツ紙の紙面をににぎあわせている。GoogleNewsの表示も、トップはお天気とマーケット指標とその他のトピックとしてコトはすべて同列。そして、TVでは、最大公約数のための娯楽で目先を変え続け、アリバイづくりのような国会茶番中継。ニュースショー、ワイドショーで政権取りゲームを解説者とともに見せられる。直感的なキーワードが秒単位で流動するネット・メディア市場は、さらに直情的。だれもが、口をひらけば、意識するしないに関わらず、立場・組織への予算・市場取りの発言になる。シニアなら年金保持、デフレ指向。企業家なら利益誘導へ。

神(自然)を恐れ、その意志を想い測り、伝えあう時代ではない。理念を信仰を共有できた時代でもない。個人が、複数の背反する組織・仲間・血縁に帰属して、自身の中に対立項をかかえている時代では、コトバとしての原理を心情的に、押しつけけても、止揚による合意はできない。

事実を測り・記録し・総合・分析して、明日の指標にそって、現実を見る世紀なのだ。
自然の理解・科学の指標でも多くの恣意のコトバが入り、フレームで区切られる。
しかし、その恣意が明示され・フレームを越えて利害が相対化されることで、人の合意と行動の手がかりとなるのでは?

革新されている企業は、人の科学に沿って合理で動いている。会議もコミュニケーションも記録もメディア使いも革新され、企業理念・財務・人事のバランスもとる。検討の手法も、シナリオからシミュレーション、議論からゲームへ、方法は拡張している。経過・結果評価も、即時・短期・長期と複数のスケールをもっている。

もう、二〇世紀の合理的個人神話から別れよう。三権分立ではなく、四権分立の世紀なのだ。


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1 コメント

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Unknown (バカボンの叔父)
2012-03-20 07:10:37
消費税増税論議や小沢裁判の経過からか、書き始めてしまった。まだ、政治に期待しているのかと自問する。
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