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自然と技術に、境界は張れない。自然の障害、武力の境い、生産と消費の境、交換と規範の境い、市場の境い、そして資本投機の境が外れて、国境を越えても貧困の格差は越えられない時代。
米国内の格差と中・南米の格差は、メキシコ国境の壁では解決しない。
工業化と情報化の技術が、級数的な資本の差を階層として固定する。
資源を争う空間とは別次元で、グローバル企業が、生活文化を性急に砕きながらSDGsの市場を求める。丁度、シェールガスを求めて、地層内のバランスを壊すように。
災害列島、限られた資源を協調しながら活かしてきた共同体が分散して、協働体として特性を維持できるのかどうか? 極東の離島で、自然を恐れ、安寧を感謝し、限られた資源を伴に活かし、歓びを分かち合ってきた共生文化は、平成という時代の水面下、現代技術によるエゴの開放で、孤立/分散/流動を進めてきた。
辺境の島国は、ネット次元で大陸続きになって、欲望大陸は膨張し続けている。
次の時代は、動物化から昆虫化への趨勢を、更なる社会科学技術の共用によって反転させる時。
環境と身体同士の相互関係を、多様なセンシングとディープラーニングによる自己制御によって、身体を軸としたローカルな差異を相互進化させて、外的な境界を不要とする、自己組織化の深みへと向かう時代へ。
さすれば、育まれ・育った地域を離れるリスクと彷徨って得られるチャンスとのバランスを、一人一人が比べて、適切な流動比率に収まるだろう。
「欲望を欲望する」空回りのバブルが弾け、這い上がりを繰り返すシジフォス神話は、終わる。
価値とは、自身が育み、伴に比べ合うもの。
『21世紀の資本』を、読み終えていなかった。
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