エヴァンゲリオンのTV版をやっと観終わった後、庵野秀明氏が関わった
映画『王立宇宙軍 オネアミスの翼』と映画『式日』を観る。
『王立宇宙軍』は、ベルリンの壁が崩壊する’89の2年前の放映、
東西冷戦後に夢を持てる時代だった。
主人公は言う「俺はまだやるんだ!十分、立派に、元気に、やるんだ!」
戦後の混乱も高度成長・オイルショックをへて権力者・勝者たちが王室のようなピラミッド社会を築き、戦争を市場としていた時代。もう一山あるぞと情報化を付加価値だと勘違いして立ち向かえたバブル直前だった。
他方『式日』、主役の藤谷文子の原作を庵野氏が脚本化し監督した、2004年実写映画。
重工業都市、崩壊した家具商店の中に潜む、主人公”彼女”と、気遣う”カントク”(岩井俊二 出演)の話。明日を迎えることを先送りし続けている少女、モノとの関わり方を失いかけている少女、毎朝飛び降り自殺しない身体を試しつづける少女、のしかかる外の世界に立ち向かえない少女・・を、リアリティの感覚を失いかけたカントクが見つめる。老朽化したオイルプラントの街、古い電車、メカニカルなものが本来の機能を失いかけて、その実体をあらわにしだしている。マイホームを埋め尽くす廃墟の家具やは、地下から屋上まで、少女の妄想のシェルター。そして、最後には浴槽に隠れこむ少女との見詰め合う関係、添い寝する温もりに落ち着き、束縛しあい、不在の母親からの電話を取る。
さて、二つの映画と「エヴァン」を交えた15年ほどを縦断して、
”親から観るエヴァンゲリオン”の再解釈にチョーセンしてみます。
『式日』では、みずからの方向を失った”カントク”が、
異常な少女”彼女”に好奇心をもち、明日を拒絶すして生きる少女と日々を伴しながらも、人の関わり合いの大切さと重くるしさの感じに見る側が一体化してゆく。
そして、彼女の母親との再開を導き、和解をさせるカントク。
このドラマから、一歩退いてみると、
自分(私の場合は男親)も子供を母親に任し、TVやゲームに預け、放置してきたことに気付く。その母親が、もし勝手してきていれば、このドラマと同じこと。母親が我慢すれば、家庭は絶えず上流・上質・チョット違う生活と比較され、優劣の責任をとらされる父は、許されて寡黙になる。さりとて、共稼ぎで安心して家庭をもてるのかという不安が付きまとう。
エヴァンでは、
アダムとリリスの力を信じる碇夫婦の一体感は強く、シンジは母と父の間には入れない。ゲンドウは、父親世代の意識を代行し、夫婦の一体感、目指す未来、衝突する”アダムとイブ”の原罪を背負う長老世代、新たな技術・意識をリリスからえて切り開こうとする21世紀・・・
核家族が先を急ぐ姿ではないか?しかし、シンジは、両親と同じ夢を追いかけきれない。キャラクターは、すべて母や伴侶と死に別れている。綾波は両親の影、シンジにとっては母のクローンとして、懐かしくもあり、また父親がライバルでもある構図となる。コトを終えたシンジには、母に包まれ、父に認められ、そして、自立して他の人々との関係を結んでゆこうと励ます丁寧なエンディング用意される。しかし、それは昨日と連続した日常への入り口でしかない。
2004年の『式日』には、父はいない。
通りすがりのカントクが、ネコにはできない母との和解の場をつくった。子供が母に不在を問い詰め、母が謝り、崩壊した子供の精神の救済がおこなわれた”式日”。
エヴァンでは、シンジ以外の子どもたちの父の影は見えない。
ドラマの役割がないから登場しないだけなのか、シンジの親のように、自分の夢だけを追い続け、子供にも同じ夢を期待しているのか?いや、親の夢は破綻し、父親の仕事のなきがらの家具屋の廃墟に、少女は潜む。母は電話をかけるだけで来ない。それとも、カントクのように、虚構に疲れ、現実のリアリティをも持て余し、夢や、子供という未来からの舞台には、でてこないかもしれない。
だから、エヴァンの裏読みは、
子供たちを、TV画面から1フィートに世界に放置し続けた親たちの、影の物語。
エヴァンが少年の、『式日』が少女の問題として、
”親はなにしてたの?”という、オジサンの自虐的な視点に行き着くのだ!!!
21世紀は、宇宙にも明日にも夢をもてない時代として、生きずらいのかもしれない。しかし、身体も精神も、多重に観察・分析できる科学技術が使えるがゆえに、より密度の高いモノや人との関わりを、楽しむことができるのかもしれない。
多くのドラマが、最終戦争後の荒廃した背景の脇で、再建される街を描くとき、
親たちの近代の延長上には、未来はないことが良くわかる。しかし、挑戦も落胆もない日々に、求められる癒しは、開放感とは程遠く、身近な親しさは、つねに湿度を帯び、粘りをもち、重く引き摺りあうほどに、傷つけあう。だから、間にモノやコトを介在させ、面白がり、比べあう日々。
エヴァンは、20世紀の親たちへのメッセージだったのかもしれない。
解釈にしろ、パロディーにしろ、オワライにしろ、
昨日を今日の身体的錬金術で、明日に繋げる手がかりなのだ。
今日も、私の誕生日 !
- 舞台脇で -
(その親たちの超高齢化社会がやってくる。どうするの?、どうするの?)
「 ・・・・・ 」
(なんていっているの?)
「もう一回、やり直させてくれー」映画『散歩する惑星』より
(そりゃないでしょ! 今から、なんとかせーよ)
「・・・・・・ 」
(おい、こら、自分たちの家族だけで、籠るなよな!)
- 前振り-
エヴァンゲリオンへの妄想力
エヴァンゲリオンTV放映から10年
- 参照 -
『エヴァンゲリオンTV放映版』
新世紀エヴァンゲリオン HP
庵野秀明公式HP
映画『王立宇宙軍 オネアミスの翼』と映画『式日』を観る。
『王立宇宙軍』は、ベルリンの壁が崩壊する’89の2年前の放映、
東西冷戦後に夢を持てる時代だった。
主人公は言う「俺はまだやるんだ!十分、立派に、元気に、やるんだ!」
戦後の混乱も高度成長・オイルショックをへて権力者・勝者たちが王室のようなピラミッド社会を築き、戦争を市場としていた時代。もう一山あるぞと情報化を付加価値だと勘違いして立ち向かえたバブル直前だった。
他方『式日』、主役の藤谷文子の原作を庵野氏が脚本化し監督した、2004年実写映画。
重工業都市、崩壊した家具商店の中に潜む、主人公”彼女”と、気遣う”カントク”(岩井俊二 出演)の話。明日を迎えることを先送りし続けている少女、モノとの関わり方を失いかけている少女、毎朝飛び降り自殺しない身体を試しつづける少女、のしかかる外の世界に立ち向かえない少女・・を、リアリティの感覚を失いかけたカントクが見つめる。老朽化したオイルプラントの街、古い電車、メカニカルなものが本来の機能を失いかけて、その実体をあらわにしだしている。マイホームを埋め尽くす廃墟の家具やは、地下から屋上まで、少女の妄想のシェルター。そして、最後には浴槽に隠れこむ少女との見詰め合う関係、添い寝する温もりに落ち着き、束縛しあい、不在の母親からの電話を取る。
さて、二つの映画と「エヴァン」を交えた15年ほどを縦断して、
”親から観るエヴァンゲリオン”の再解釈にチョーセンしてみます。
『式日』では、みずからの方向を失った”カントク”が、
異常な少女”彼女”に好奇心をもち、明日を拒絶すして生きる少女と日々を伴しながらも、人の関わり合いの大切さと重くるしさの感じに見る側が一体化してゆく。
そして、彼女の母親との再開を導き、和解をさせるカントク。
このドラマから、一歩退いてみると、
自分(私の場合は男親)も子供を母親に任し、TVやゲームに預け、放置してきたことに気付く。その母親が、もし勝手してきていれば、このドラマと同じこと。母親が我慢すれば、家庭は絶えず上流・上質・チョット違う生活と比較され、優劣の責任をとらされる父は、許されて寡黙になる。さりとて、共稼ぎで安心して家庭をもてるのかという不安が付きまとう。
エヴァンでは、
アダムとリリスの力を信じる碇夫婦の一体感は強く、シンジは母と父の間には入れない。ゲンドウは、父親世代の意識を代行し、夫婦の一体感、目指す未来、衝突する”アダムとイブ”の原罪を背負う長老世代、新たな技術・意識をリリスからえて切り開こうとする21世紀・・・
核家族が先を急ぐ姿ではないか?しかし、シンジは、両親と同じ夢を追いかけきれない。キャラクターは、すべて母や伴侶と死に別れている。綾波は両親の影、シンジにとっては母のクローンとして、懐かしくもあり、また父親がライバルでもある構図となる。コトを終えたシンジには、母に包まれ、父に認められ、そして、自立して他の人々との関係を結んでゆこうと励ます丁寧なエンディング用意される。しかし、それは昨日と連続した日常への入り口でしかない。
2004年の『式日』には、父はいない。
通りすがりのカントクが、ネコにはできない母との和解の場をつくった。子供が母に不在を問い詰め、母が謝り、崩壊した子供の精神の救済がおこなわれた”式日”。
エヴァンでは、シンジ以外の子どもたちの父の影は見えない。
ドラマの役割がないから登場しないだけなのか、シンジの親のように、自分の夢だけを追い続け、子供にも同じ夢を期待しているのか?いや、親の夢は破綻し、父親の仕事のなきがらの家具屋の廃墟に、少女は潜む。母は電話をかけるだけで来ない。それとも、カントクのように、虚構に疲れ、現実のリアリティをも持て余し、夢や、子供という未来からの舞台には、でてこないかもしれない。
だから、エヴァンの裏読みは、
子供たちを、TV画面から1フィートに世界に放置し続けた親たちの、影の物語。
エヴァンが少年の、『式日』が少女の問題として、
”親はなにしてたの?”という、オジサンの自虐的な視点に行き着くのだ!!!
21世紀は、宇宙にも明日にも夢をもてない時代として、生きずらいのかもしれない。しかし、身体も精神も、多重に観察・分析できる科学技術が使えるがゆえに、より密度の高いモノや人との関わりを、楽しむことができるのかもしれない。
多くのドラマが、最終戦争後の荒廃した背景の脇で、再建される街を描くとき、
親たちの近代の延長上には、未来はないことが良くわかる。しかし、挑戦も落胆もない日々に、求められる癒しは、開放感とは程遠く、身近な親しさは、つねに湿度を帯び、粘りをもち、重く引き摺りあうほどに、傷つけあう。だから、間にモノやコトを介在させ、面白がり、比べあう日々。
エヴァンは、20世紀の親たちへのメッセージだったのかもしれない。
解釈にしろ、パロディーにしろ、オワライにしろ、
昨日を今日の身体的錬金術で、明日に繋げる手がかりなのだ。
今日も、私の誕生日 !
- 舞台脇で -
(その親たちの超高齢化社会がやってくる。どうするの?、どうするの?)
「 ・・・・・ 」
(なんていっているの?)
「もう一回、やり直させてくれー」映画『散歩する惑星』より
(そりゃないでしょ! 今から、なんとかせーよ)
「・・・・・・ 」
(おい、こら、自分たちの家族だけで、籠るなよな!)
- 前振り-
エヴァンゲリオンへの妄想力
エヴァンゲリオンTV放映から10年
- 参照 -
『エヴァンゲリオンTV放映版』
新世紀エヴァンゲリオン HP
庵野秀明公式HP
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