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「日本の現代思想 ー ポストモダンとは何だったか」 読後のレシピ

2007-10-01 11:50:41 | 基本的なコト
ほぼ1年前発刊された「日本の現代思想 - ポストモダンとは何だったか」中正昌樹 著に触れて、読みおうせない戦後思想を現代まで整理してもらい、私のたどっていた迷路が見えてきた。

しかし、`思想’を、言葉の中だけで語っていていいのだろうか?
著書の最後の一章「カンタン化する「現代思想」」では、文化人類学、社会学の現場細分化にたいして、
「あらゆる常識を疑わざるをえなかった深い懐疑のまなざしを学ぶべきだろう。
 それこそが、マルクスをリサイクルすることである。」(同著 -P.245 より)
といわれてしまうと、
「我疑う、故に我あり」と、近代デカルト、疑い・思う自身にたいする信頼を前提にした、ルネッサンス以後の人間主義に、実証する科学的手がかりもないイデオロギー世界に、戻ってしまう。それを避けるための雑感、行動の手がかりをここに。

<雑感>
中世の写本・版木などの印刷に頼って伝導されてきたコトバが、活版印刷のり、宗教・政治・契約・記録・私小説などと流通してきた。観察可能なことがらを記録し・再現化を測る科学が、工業化をすすめ、出来てしまうものを売る意味づけが大衆消費社会を発展させた。この間、メディアは文字だけ、言葉だけが流通したのではなく、絵画・挿絵から写真・映像、声の伝承は、詩歌から音楽・ラジオ、身体仕草は、踊りからダンス・バレー・オペラ・・・など、その背景を埋めていた。

疎外から物象化で扱う、主体としての’人間自体’が概念的に解体されたのは、農業・田園生活から工業化・都市化での労働と交換経済の変化の中だった。世界と神と一体だった人間自体、肉体と精神、理性と感性に二元化され、肉体は解剖学から遺伝子、分子生物学まで展開し、理性は観察し言語・数理記号として記録・検証される自然科学と、交換経済の通貨換算という出口に集約された。
ウィトゲンシュタイン以後、言語自体は恣意的に偏在していると自覚され、
ミクロには五感の検証を、マクロには記号の微分・積分を活用する手がかりとなって、概念の独立性・優位性を失った。
宗教改革の原点:’何よりも始めにあったはずの言葉’が、状況・時代の恣意的なものとみなされた。後は、全てでも絶対でもない、機能としての宗教、行為としての信仰の意義が拡大している。
それは、エネルギーと情報が持続する場として、開かれた存在の人間、
つまり、主体という近代的個人、自己完結を目指すことを放棄し、意識的に外部に帰依する精神生活ではないか?
開かれて境界の危うい主体は、疑うのではなく、途惑うだけの存在。
それが中世と違うのは、
自己生成してゆくシステムとしての人間ー社会のあり方を認め、
指し示し、志向する、愛と創造という行為に身を委ねるのだ。
 「社会システム理論〈上〉 」 二クラス・ルーマン著
「社会システム理論〈下〉」 二クラス・ルーマン著
「形式の法則 」G.スペンサー・ブラウン著
「行為の代数学―スペンサー=ブラウンから社会システム論へ」  大澤真幸著
「情熱としての愛―親密さのコード化 」 二クラス・ルーマン著
「社会の芸術 」 二クラス・ルーマン著

<個体的規制>
衣食住の生存条件からの危機を免れている人たちは、
自らの欲望の無限さに身を委ね、他人の欲望の無限さから身を守る保身へと族化して縮小した安定を求めるか、
地球生命存続という共通の危機意識を共有して広がりを求める。
それは一方に家族主義から個人主義、そして個人内面の抜け穴を掘るフェチ、オタク、金権崇拝、
他方には個人事象を過度に一般化をした物語を展開し同化しようとするセカチュウ。これは、一神教での神との対話、世界の救世主志向を持ち続ける西欧化の影響であるとも取れる。
この保身・縮小か、分散・拡張のバランスをとる地域生活社会の共通の伝統や継承は、世界経済の流動化のなかで消えてきた。特に、近代化を明治100年進め、思想放棄を戦後50年へた日本では、生活心情も信仰も言葉も流動化し、マスメディアの話題ネタをコピーし反射し合う、大衆消費情報社会となってきた。衣食住が足りれば、ヒューリスティックに解りやすく直感的な快楽を、無限の見立て、擬似差異化が市場商品・市場情報を無限に生み出す。エンターテイメントやアートが感情・感性の商品化を進め、みずからの情欲が下がると、動物というよりは昆虫、働き賑やかに動き確率的に反応することを至上とする蟻のような感じです。

そこではもう、個人・組織が拠るべき倫理・規範、法の遵守などは期待されていない。
また、誰かが監視しつづけ、具体的な境界をもうけて排除してゆく社会が危惧されているのでもない。
ごく一部の人をのぞけば、個人ごとの監視・管理のコストを掛け、市場の流動性を妨げる社会ではない。
だれでもVIPでもセレブでもカリスマになれるチャンスをわずかにでも持ちながら、ほどほどの差異をを拡大することで自己規制してしまうのだから。

日本のような定住社会は、純血が子孫繁栄の危機であり、閉じつつ開いてきた経緯がある。
ゲルマン、アングロサクソンのような社会は、移動しつつ血統、宗教、法を守る必要もあったのだろう。
今、DNAによる血統の優位性を確立しようとしても、
成長の環境・関係作りで、競争力のある後継者が生まれ、育つ可能性も少ない。
信仰は、意識的にする時代となり、生活全般を規制することはない。
法が恣意的につくられていることを知ってしまえば、法を善意に解釈するのはなく、法の際を遵守することだけが守られる。
そして、個体を動かす意識下の拡がりに身を委ね、意識・理性の硬直性を逃れるには、自身の制御を、外部に依存することになる。信頼できる持続的な関係をもつ相手・人がいなければ、その外部は、人ではなく、自らのスケジュール表、財務管理、ニュースの選択、ペットの餌やりまで、システム化されたものになる。
そこで自身はこだわりなく、直感・欲望によるクリエイションに集中し、自己制御の回路を社会的なシステムに委ねる。
社会的なデータ・知識だけでなく、写真・ビデオなど身体の記憶の一部もケータイ、PC、ネット上のデータベースにおく。個人化された外部の写像/映像/音/ことばなどに、直感的に反応することで、個体の持続性を保つ。
これは、生活範囲としての部屋・家・街・自然などが支えてきた持続的な状況に代わる、個体の成長・成熟をささえる手がかりになるのだろう。

<社会的規制>
宗教・倫理・規範という人の意志による自己規制に依存するのではなく、
監視されて・検知され・記録されてしまうという可能性、
いざとう時にはその行動の軌跡がDNA検査なりアクセス・ログなどで特定され、責任をとらせるという外部システムで自己規制をする。

SF的な管理社会の危機を描く映画と、有り得ない危機脱出・犯罪成功ストーリーは、表裏一体として、ほどほどの管理社会に身を委ねさせるプロモーションの役割を果たす。
ほどほどにという保身は、このつかの間でも、ささやかな安定を失うリスクを取ることはできない。たとえ、地球環境という傾斜を始めた人間舞台から、滑り落ちないよう差別化に励んでも、傾斜自体を根本的に止めようとする覚悟は、今落ち始めている人たちだけのものだ。

グローバル社会では、キリスト教・イスラム教のような他民族・他文化を融合してこれた共通の信仰や地域の棲み分けもできない。
そもそも日本には、おとがめを恐れ、自然への畏怖を超えられる以上の信仰はまれだった。
エジプトやギリシャのわがままな神々・人間の欲望を律するローマの法という文化も根付いてはいない。
ロラン・バルトがいうように日本は首都の中心に空洞な象徴、
自然と歴史に対する畏怖を抱くことで持続可能であった、
世界からの辺境でしかない。

自律して自己判断ができる人間という神話が解体され、
刺激の奔流に、反射と感情で共有した同士・モノで保身する、群れ。
ここは、自身を自分で、監視されコントロールされるように設定してゆく社会が見えてくる。
清教徒がつましく働き蓄財した資本が世界を巡るとき、
自由・平等・博愛の人間欲望が、法と規則をつくりつつ、工業化・情報化をすすめ、市場経済の最適化を進めてきた。
マルクスのいう労働の疎外と物象化こそが、人間の欲望を合理的かつ効率的に歴史を動かしてきた。
そして、その人間欲望は、地球の人間の歴史を終わらせるのではないのか?

事を分け隔てる言葉の一人歩きは、発信と受信を重ねて自己増殖をつづけ、不信・不安を募り、コミュニケーションの意欲を失わせる。

見回せば、’安全・安心’、’環境・自然’、’高齢対応と子育’を希望する言葉は氾濫し、言葉のレッテルが貼られた商品として流通する。
多様な言説の言の葉の違が差異化をすすめ、その意味を実行に移す前に、異議がもうしたてられ実行・持続力を欠いてしまうしまつ。

言葉が少なかった時代には、文字・印刷活字も有限で、有効だった。
今は、ネット上、スパムも雑音も、自動生成されて、あふれかえる。
マスメディア、広告メディアに反射的に反応し・噂し合えばより鉄板病化する。

サイバー・ゲームも持続する共通の物語のプレーヤーたちを求めてメジャー化する。
メディアリテラシーもまたその問う立場が脱構築され、循環に陥る。

言葉で疑い、言葉で理解するという、長い文字文化、文字リテラシーに沿った、
言葉のメディアだけでの理解・行動が自己増殖する危惧は常に伴う。
フランス革命、ロシア革命は、言葉による革命だったのではないか?
ファシズムはラジオ・映画による言葉中心の煽動だったのではないか?
米国型大衆消費社会化は、TVに依存したのではないか?
世界市場社会の暴走は、欲望の数値アルゴリズム化ではなかったか?

<方法論>
これまでは、家族・友人・職場の友や上司など、相互に干渉し合うことで、
調整し合うことができた。
しかし、あるべき論・懐かし論が輻輳し、
家庭の中、職場の中でも演技せざるをえない世代、家庭・組織がふえると、
自身をら疑い、自分で自分の外部記憶を調整してゆく覚悟がいる。
まさか、セラピストに自分の精神を預けて、社会最適化を図るほどには、
自己喪失したくない。
それもまた、エンターテイメントの一つぐらいであればいいのだし、
昔からの伝記を読むとか、人の話を聴くとか、街の習慣に身を預けてみるとか・・・いろいろあるだろう。

村などの生産共同体が生活圏であった時代はもうとっくに終わっている。
生産・流通・消費がグローバルにな資本市場の上にある以上、
その資本は、人間の欲望にのっとって流動・偏在している以上、
生産共同体こそが、熾烈な生存競争を、人間の欲望市場の上で繰り広げている。
国家もすでに、欲望からの人間社会生態学的サンクチュアリーとして、守るべきものとなっている。
なぜ、ECが再編されたか?ローマ帝国の再編によって、第1次・第2次対戦の疲弊から立ち直り、
米国市場の限界を超えようとしているからではないか?
最近の「ナショナリズムの由来」大澤真幸著が多様なナショナリズムを語るのは、
この人間が捨てきれないナショナリズムとはなにかとという現実的な視点が必要だからではないか?

幻想の共同体の手がかりである、自然や地域の持続性を失いながら、
地方でも都会でもない、浮遊状態になりつつある日本。
ここはすでに街がバーチャルで、視覚的・聴覚的なノイズに目をそむけ、耳をふさぐ週刊誌・携帯・ゲーム機・iPODの世界だ。
街メディアは、更に更に、街を覆い、週替わりのベールをまとう。

ここで、いまさらバーチャル空間をつくるに必要もなく、
獣道というテリトリーをもつ動物的感情すらリセットし続けてしまう、
メディア・フェロモンに反応する昆虫化へと進んでいるのではないか?
すでに、
少年少女のころの人形・アニメ・映画は古典となって繰り返され、終わらないファイナル・ファンタジー、終幕のない映画のエピソード、TDLは街に溢れて社会のテーマパーク化は、進んでしまっている。
マトリックスのように地下に潜って踊っていなくても、地上を切り取り・見立てていれば、モバゲーは楽しめるうたかたの泡。

それなら、身近な身体内の感覚をもっと掘り起こし、
言語・現象・体験を結び合ったコミュニケーションで、
ローカルに細密な感性を喚起できる、個人的な時間の使い方があるのだろう。
iPhoneともっといろいろなセンサーで、ネットワークにつながりつつ、庭や街を徘徊するデジタル熊谷守一のように。
Wiiとともに身体と対話し、つながりあう現代の方丈の庵は、
首都圏ど真ん中の植木鉢に住むのかもしれない。
いやいや・・・屋上庭園、ベランダ菜園から・・・ご近所を徘徊して、
いろいろな人と声を掛け合って住んでゆくのだろう。

そのとき感じ合うのは、言葉の手がかりだけではないだろう。
視覚、聴覚、臭覚、触覚・・・
`皮膚思う、ゆえに我あり’ 「第三の脳」 傳田光洋 著より

<カルテ?レシピ?>
そこで、近代の検証科学をさらに拡張して活用する処方箋とは、
1.言語を図象・画像・映像・音・臭い・触覚・・・などメディアの五感に拡張するだけにとどまらず、
多様なセンサーを活用し、メデイアが媒介する対象との交信、つまり通信による相互反応を、ローカルにライブにすること。

2.人間を構成する頭脳・神経・内蔵・筋肉・・・などは中心を持たず偏在しているのだから、
相互反応しあう対象・相手は限定されて、多様な接触・反応が持続することが必要。
1対多といっても、7人以下ぐらいが普通の人の限界だろう。この範囲なら、相手の反応、行動、言葉の範囲などを調整しあえるのではないか?それ以上は、コーディネーターやファシリテーターが必要になる。
2人ではだめ、閉鎖的なセカチュウになる。

3.外部記憶に相互反応を記録させ・整理・確認させてゆく。
自身のいる現場にて、自身の身体・頭脳・感情の状態だけで、判断・享受できることはわずか。
記録・持続できる、文字・写真・映像・フィギュア・・・インテリア・住居・街・・・などの生活圏に、いろいろな手がかりをのこして、その冗長性により自身は安定を保っている。
それらは、自身の手がかりと同時に監視装置でもあって、その変化のスピードと量が、相対的に個人の状態を支えているのだから。

4.この結果、個体は様々な象限で自己組織化を果たしつつ、身体が属する地域で検証しあえる対象を共有することで、感情を喚起しあい、言葉の摩擦力を維持して持続的に相互関係を展開することができるだろう。

有無を言わさず、色即是空


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