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映画『天井桟敷の人々』から、公共性の喪失を考える

2005-09-18 09:42:01 | 暮らし・街・環境
映画『天井桟敷の人々』を、19世紀前半のパリを知る感覚で見た。

<自己演出と自己隠蔽>

商業市場から工業市場へと、都市が膨張しだした時代。
芸の場が王侯貴族のサロンから街に出て、
大道・小屋から、劇場へと舞台を構えてゆく時代。
それは、神の世界を現す芸が、芸術へと独立しだし、
村祭り・カーニバルの流民が、芸人へと舞台に上がり始めた時代の物語だった。
都市の主役は、流浪してきた芸人たち、
革命後、貴族の専制の時代だった。

さて、その映画後の社会は工業・流通業の爆発的な発展により、
都会は、土地を離れ、身分制度の枠をはずした人々の坩堝となり、
だまし・だまされ、演技し・演技されながら、
都会の無表情・無関心を身につけ始めた時代。
市井の喜怒哀楽をともにする、天井桟敷の人々も、
自己演出をする人と自己隠蔽をする人へと別れ始めた。

自己演出は、流民としての芸人から、学問、政治までを有名人という社会舞台人へと広がり、
人の間を流通するモノもまた、手製から工業製品としてあふれ、自己演出力を求められブランド化する。
そして言論・音楽・仕草・ファッション・体臭までが、商品となり市場で流通する。

一方、自己隠蔽は、公私の分離、職業と生活の分離による、家庭という聖域を生んだ。そして家庭では、家族としての外と個人の内面との分離をを生んだ。
それは、住む場所、、身なり、言葉、感性などが自明な封建社会生活の枠、
人を支えていた社会的な枠の崩壊であり、世襲する利権・仕事がなくなると、親子世代の連続性を崩壊させる。親子で共有する未来がなくなり、過去も忘れ去られ、家族内での共有情報は失われ、自己隠蔽は完成する。個人情報保護が、親子で争われる時代がくるのだ。家族成員は、経済的な基盤を分け、曖昧な共感の持続という希少な絆だけで支えられる。

<日本では  >
日本での天井桟敷は、江戸時代は元禄・文政から、明治以降は浅草・銀座、
そして、キネマからTVへとその舞台を変えてきた。

今、あのウォークマンからPodに象徴される、メディアのパッケージ化・個人化が、
コミュニケーションとメディアのネットワーク化で実現しようとしているときに、
私たちは、TVタレントの言葉をしゃべり、時事有名人の言葉で政治を語り、
歌手の歌をカラオケで歌い、新旧のファッションを組み合わせ、
理想のボディーパーツ作りに励み、消臭したうえに香り付けを繰り返し・・・
自己隠蔽を完璧にする。

いや、これは自己表現であり、言葉も衣服も身体も、
すべて社会的な共通用語なのだと、言い切れるかどうか?
自己開示のつもりの自己が、社会的に分裂し、
多様な場面・相手に対して、されぞれの感性にそった言葉・外見・匂いを使い分ける。
それは、社会的なナルシズムの中、
すでに自己が解体した、集団ナルシズムの中、
場面場面で親密な関係を取り結ぶ関係の並列社会。

<共同幻想から人間幻想へ>
「天井桟敷の人々」当時の階級社会が、大衆化し、
場面場面で演じ分ける集団ナルシズムのなかで、
自己を保全する凝集力をうしなってゆくことは、
<共同幻想>から、<人間幻想>へと崩れだす。

”公と私”
”公”を支えた”私”生活の主体である人間が崩れだした時、
公共性は喪失されてゆく。


→つづく

参考:「公共性の喪失」

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