モノと心の独り言

コミュニケーション/メディア/コミュニティ ココロの建築家になりたいと・・・ 

<共感幻想>による、団塊世代の自己隠蔽というテロの時代へ

2005-09-22 09:00:32 | 暮らし・街・環境
「・・・・公共性を考える」 からのつづき

<共同幻想から、共感幻想へ>

近代的個人による公共社会、民主主義は、
人間の自律、自己主張の神話のうえにたつ
価値ある<共同幻想>だった。

しかし、コミュニケーション・メディア・ネットワークの中で
人間という個体の境界が崩壊しだすと、ナルシズムも分裂する。
互いへの視線を弱め、相手の瞳に写る自分を見、
メディアの中のモデルとの差異を埋めようとする。
引用するスクリーン、いやモニター画面に近似しようとする主体。
チャネルを切り替え、現在の検索結果を映し出すだけだから、
互いに侵犯する必要もなく、自己表現という社会性から免れる。

共通の対象を映し出して集まる仲間の親しさの優しさの中、
共感している手がかりさえ認め合えば、
分かり合う努力は不要、共同という相互侵犯・束縛は不要。
ちょうどスーパー銭湯に浸かるように、共感幻想に浸る。

源泉が枯れはじめ、湯が冷めはじめても、
稀少なサービスを受け続ける社会的な力をもつ者同士、
わずかな親しき人だけで浸り続けるほどに、
共感幻想関係は強くなる。

<共感妄想の危険性>

共感幻想は、コミュニケーション・メディアにより、無限の消費市場を支える。
その市場基盤が揺らぐとき、共感幻想は共感妄想とエスカレートし、
ビジョンを持たないメディアは、思考を短絡させ・うわさで増幅し、
ファッショが自己組織化され、社会衝突と破壊の道を一瞬で進む。

自爆テロもまた、共同幻想から共感幻想による、戦い方の変化なのだろう。
未来に絶望し、過去の栄華・共同幻想に引き戻されれば、
残る余命時間も共同の歴史の一瞬に過ぎず、捨てられる。
信仰がと社会性とは、別の次元のことなのだ。
他の信仰者を巻き込むことは、武力戦争なのであり、経済戦争時代の

<共感幻想が市場社会を支える>

共感幻想社会は、市場で生成される無限幻想の差異を、
共感消費で支えている社会だ。
人々は、差異を埋め続け、優位性を維持し続ける消費生活として、
自己表現をする。

市場組織はネットワーク化され、最適化され、集散離合を繰り返す。
資本市場社会の法人は、国境を越え、資本戦争の論理で最適化を進める。
しかし、その源泉である資本市場もまた、操作する者の期待と恐怖に反応し、
揺らぐ。

<市場組織から離れる団塊世代>

その市場組織から、団塊の世代が離れる時期が来た。
離れ方は、様々、職域との関係を強く残すもの、利権を抱え親しい仲間に引きこもるもの、関わりの薄かった住居地域・テーマに自己を開いてゆくものなど。

市場組織から離れ、消費だけで社会と繋がることは、
共感消費者として、モノ・サービスに付帯する情報を消費することで表現している
社会を映すモニターの収縮が進む。
一方的で過剰な消費は、蕩尽による社会循環でもあるが、
外界とのバランスで成り立っている生命としては、
内部への崩壊ではないだろうか?
それは、ブラックホールにも似た社会性の自壊、
自爆テロの別の姿にも似ていないだろうか?

<メディア消費による自己隠蔽>
社会のメディアを消費し、映し出すこと、
言い換えれば、コピー・ペーストすることは、
自己を現さない自己隠蔽の一種ではないか?

社会が関係でてきており、関係が相互表現で成り立っているのなら、
自己隠蔽は、闘争とは異なるもの、宣戦布告されない、
日常社会関係での、テロではないか?

今、社会のメディアは、身の回り・地域のことなど構わず、
世界の人気投票を、日替わり・テーマ替わりで、生成し続けている。
ニュースは、新規開店か事故・犯罪・スキャンダルであり、
視聴率・発行部数・クリック数、ランキングは、不可思議な人間・社会が実証する社会的な価値=リアリティの数値根拠である。

所詮言葉も、感覚も、社会化されたメディアにより支えられているのだが、
自己表現が社会メディアに依存するほどに、
自己の身体からの発信は消える。
そのメディアに、身体の属する地域情報があがる確率は少ない。

団塊自身が戻り・関わる地域社会の情報は、メディアのランキングには入らない。
ネットワークが繋がりあい、コミュニケーションがメディアと接合し、
地域の規模が超えられてしまうときに、コストに耐えられない地域メディアは消える。

そのとき自身が興味を持つことは、メディア・ネットワーク上の人気投票であり、
差異の商品化によるメディア・ドリームの有名人のしぐさなのだ。
それを、映しているモニターである個人は、結果的に、
自己隠蔽を完成させる。

<親しさの中での公共性の喪失>
そして、自分の親しい仲間だけのチョットいい話、
親しさの人間関係へと、社会が崩壊してゆくのだ。
社会の基盤は、すでに親しさの規模を超えた次元、
常に市場戦争という、村の規模を超えた”市”の規模なのだ。
グローバルな市場戦争時代での、日本における団塊世代の自己隠蔽は、
世代的な自爆テロみたいなものかもしれない。
「意識時代」

じゃー、組織のテーマを離れた後、
どうやって地域社会・テーマ社会に再デビューするのか?
それが、問題なのだ。


参考>
   『エヴァンゲリオン・・・・・』から

   「公共性の喪失」

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
エヴァですか (hal*)
2005-09-23 09:11:00
密かにちょくちょく拝見しております。

テロなのかどうかは分かりませんが、思考に共感するところが多く、うなずいてしまいました。そうして私が思い続けている事は、だから私はどうすんだと。漠然と何かを表現したいと思うのだけれど、それを出来ずに漫然としています。

ところで、エヴァンゲリオンっていうのはこういう空気を庵野さんが表現したアニメ?っていうことなのでしょうか。見たら面白いのかな。。オネアミス、トップ、ナディアときて何故かエヴァの時にはさめてしまっていた元アニヲタな私です。
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テロ、庵野、リアリティ (バカボンの叔父)
2005-09-23 18:46:11
hal 様

コメントありがとうございます。



”テロ”は、強引なのですが、

イデオロギー亡き後、人権・エコロジーなど倫理による社会語りの中で、テロは社会を変えてきたし、それぞれの共感・妄想も社会を変えてきたということを、スキャンダラスに表現しました。影響をうけたのは、「シミュレーショニズム」さわらぎのい 著 です。



”エヴァン”は、庵野氏の私小説のような性格が感じられ、TV版26話を観ないと全体像が解らない。最初、少年だけの問題かと思っていたのですが、逆に大人という近代的個人が崩れていることに気付き、精神的には境界領域の話題がちりばめられているようです。

最後の、「式日」は、実写映画で、1本で、少女のリアリティを見つめる庵野氏のスタンスが感じられます。

冷める要素は、発展し・成長する社会への期待を失って、自己に向き合ってしまっているからではないでしょうか?

オネアミスのときに、すでに目標が失われ、とにかくガンバルだけになっていたし。

リアリティは、他との関係の中でしかありえない。目標や対象を失い、メディアのコトバがすべり、身体は、パーツとして一体感を失い、自分に向き合ってしまうナルシズム。

立ち向かうには、自身の手がかりを残しあうことかなと、想うのです。

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