国立新美術館で開かれている「シュルレアリスム展」を観てきた。
パリ、ポンピデゥセンター所蔵作品の展示は、初めて見る画家・作品も多く、とても楽しめた。
ダダが運動だったとすれば、シュルレアリスムは方法の実践。
印象派からキュービズムまで、対象(オブジェ)を外に求めてきたアートが、
未来派・表現派など、概念や感情へとイズムの展開が進んだ中で、
ダダは、全否定・何でもありという一瞬を通過しようとする運動だったと思うし、
シュルレアリスムは、その後の方法の模索だったと思える。
新美術館での展示は、作品の時代や社会背景を抜きに、作品と作品に属するコトバだけを展示していた。
写真の普及が、画家をして抽象や内的な世界へと向かわせた表現の状況、
第一次大戦という、友や家族など市民の死に直面し、近代科学・技術・産業とは別のアプローチを模索した状況など、全くふれられていなかった。
日本への紹介は、1936年ごろで、丁度大東亜戦争へと突入した時期に重なる。
戦後の復興・高度成長は、日本人の近代科学・技術・産業への依存を高め、その疑問はバブル崩壊の時期からだったのだろうか?
精神生活への興味が高まり、現実を越えたリアリティを感じさせる、コミック・アニメ・ゲームがリアルな生活に被さっている現代は、
もう一度、オブジェ:対象から、心象風景を組み立てようとする時代かもしれない。
ポスト・モダンの後が、デフレの出口とともに模索されている今、
新たな差異化を商品化したい新美術館の催しとして、オモシロイといっておこう。
(国立新美術館での展示会は、5月9日まで)
国立新美術館 と 「20世紀美術探検」展
パリ、ポンピデゥセンター所蔵作品の展示は、初めて見る画家・作品も多く、とても楽しめた。
ダダが運動だったとすれば、シュルレアリスムは方法の実践。
印象派からキュービズムまで、対象(オブジェ)を外に求めてきたアートが、
未来派・表現派など、概念や感情へとイズムの展開が進んだ中で、
ダダは、全否定・何でもありという一瞬を通過しようとする運動だったと思うし、
シュルレアリスムは、その後の方法の模索だったと思える。
新美術館での展示は、作品の時代や社会背景を抜きに、作品と作品に属するコトバだけを展示していた。
写真の普及が、画家をして抽象や内的な世界へと向かわせた表現の状況、
第一次大戦という、友や家族など市民の死に直面し、近代科学・技術・産業とは別のアプローチを模索した状況など、全くふれられていなかった。
日本への紹介は、1936年ごろで、丁度大東亜戦争へと突入した時期に重なる。
戦後の復興・高度成長は、日本人の近代科学・技術・産業への依存を高め、その疑問はバブル崩壊の時期からだったのだろうか?
精神生活への興味が高まり、現実を越えたリアリティを感じさせる、コミック・アニメ・ゲームがリアルな生活に被さっている現代は、
もう一度、オブジェ:対象から、心象風景を組み立てようとする時代かもしれない。
ポスト・モダンの後が、デフレの出口とともに模索されている今、
新たな差異化を商品化したい新美術館の催しとして、オモシロイといっておこう。
(国立新美術館での展示会は、5月9日まで)
国立新美術館 と 「20世紀美術探検」展
独り言も結構孤独なのです*(当然だ!)
答えがないから、みな悩みつつ生み出していくのでしょう。
書もしかり。
http://machihito.blog131.fc2.com/blog-entry-237.html
書家にとっては、さらに身体の動きや呼吸が移る場なのでしょうか?