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国政の変化、地方政治・政治が身体化する時代へ

2005-09-16 08:39:49 | 暮らし・街・環境
国政の変化が、縮小に向かうとすれば、
地方自治活動の拡大が、他方になければ成り立たない。

地方自治体を支える地域市民が、地域の価値を自覚し、
協調して、育て、生活価値を共感できなければ、
自治体もまた、世界市場での運営組織となって、
市民は、世界市場製品・サービスの消費者となる。

さらに、人材の生産組織である、家族・家庭の維持も、
その投資額と見返りで計算され、
自身の消費生活維持のためには、放棄されることになる。

では、その消費生活とはなにか?
逆に言えば、生活価値とは何か?
自己存在感とはなにか?

存在感とは、他との関係の中に意味が見出せることで
自身の欲求に向き合ってしまっては、見えなくなってしまう。

なぜ?
今、身の回り、意識するしないに関わらず、
自然の刺激量とは比較にならないぐらいの社会的刺激に囲まれている。
自身の欲求は、それを反映してしまう。
それ、
その社会的刺激のほとんどを提供しているのは、
そのコストを担う事業者なのだ。

たとえ、あなたの親しい人との会話であっても、
その話題は、何らかのサービス・商品を利用する
社会的刺激に支えられている。

言い換えれば、コミュニケーションを支えているのは、
共通の話題であり共通の感じ方なのであり、
その共通という同時性を支えているのが、
マス・メディアや、流通するコンテンツなのだ。

国政は、世界市場での組織とすれば、
好みや、感性、なじみの政治家の世界ではない。
しかし、身体が接し続ける地方・地域は、
空間と自然と生命の持続する身体的な関係の場なのだ。

この身体と連続するなじみのいくつかの場や人との関係を、
世界市場原理に解体されたくないのなら、
個人が、地域の政治に関わるしかない。
過去のように、向こう三軒両隣という相互比較監視自治ではなく、
生活行動範囲での、いくつかの場と関係を維持できる仕組みによって、
オープンに維持される必要がある。
そこで、生活する一人一人が、
感じ・表現し・伝え合い・記録しあう能力が、必要とされる。

それは、ユビキタス・ネットワーク社会によって可能になるものなのだ。
いつでも・どこでも・だれとでも・時差を使いながら(留守電・記録DB)
課題や面白さの生活の現場に、リアルに・バーチャルに参加・協力し合うことで、
多様な場・関係を、維持できる、社会基盤なのだ。
ユビキタス・ネットワークは、生産性・消費性のための道具だけではなく、
それが、個人化されれば、一番必要な場所で、一番必要な人と、生活していられるシステムにできるのだ。

そのとき、生活することが、地域の政治に関わることになる。
身体性の政治、
そもそも、
政治は、大きくなった生活経済を治めるために始まったのではないか?
自然の驚異・コントロールできない災害・人間集団の狂気たいしてこそ、
祭司が生まれ、伝えられる教義が宗教になったように。

言葉とともに、音像・画像・映像などの媒体を、個人化できる時代には、
どんどん身体と対象の関係の不思議さ・感動力が生まれてくる。
純粋芸術として、あるいは流通商品としてのアートではなく、
身体感覚としての日常のアートを分かち合うことが、
生活の質なのではないだろうか?

そのためには、世界市場での経営はより合理的に、
生活の身体は、より総合的に、政治が身体化する時代へ。


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